“痛〜い”話 パート2

<ナレーション>
 皆さん、家の中を裸足で歩いていて、つい敷居の段差を蹴飛ばしてしまうことありませんか。あるいはタンスの角とか。テーブルの足とか。こりゃもうたいそう痛いですな。しかもそれが小指だけだったりすると、なおのこと地獄。あまつさえこんな寒い冬の日でもあれば、これは痛さ3乗……3乗……3乗……(エコー)

  ギャァァァァァァァァ……! 

 「何なんだよ今のは?」
 「いや、番組のオープニングのつもり。」
 「芸が細けえな。じゃあさっそく行くよ。痛い話ノミネートのbRは“爪と指のはざまに”」
 「あ、聞いただけで想像できちゃった。そりゃ痛えや。」

 
 爪と指のはざまに

 これまた子どもの頃の話だな。下町の原っぱは工事現場とか危険な場所にこと欠かなかった。で、そういう所によく工事用の掘建て小屋とかがあって、オイラたちの隠れ家になってたんだ。ところがこいつ安普請の上に、雨ざらしになってるもんだから木とか腐ってるのよ。小屋全体がグラグラしてる。でもそんなことは気にしないで屋根の上にのぼって遊んでたんだ。3人くらい乗ってたな。そこへやってきたのがクラスのデブちん。「オレもまぜてくれよお」「だめだ、お前みたいなデブ公が乗ったら屋根が抜ける!」来るんじゃねえって蹴り落とそうとするんだけど、お構いなしにデブはよじ登ってくると、すごい形相でオイラに突進してきた。「ヨクモ、ケトバシタナア!」本気で怒ってオイラを組み伏せてグイグイとおしつけるんだ。とたんにバリバリッ! 本当に屋根が抜けちまった。デブちんはそのまんま落っこちて、顔を3針縫ったんだけど、オイラは必死に屋根の梁にしがみついたんですぐには落ちなかった。ところがこれがいけなかったんだな。さらにピシッという運命の音と共につかんでいた柱が裂けてあえなく落下。したたか腰を打ったんだが、それはまだいい。問題はつかんでいた柱の木片が、右手の親指から小指までの全部の指と爪の間につき刺さって……

 「おわあ! やめてくれえ! 痛すぎるぅ〜」
 「いや、一番痛えのはそいつを抜いた後にだな、病院で爪の間に細い金具のようなの差込まれて消毒された日にゃ、まさに生き地獄。」
 「……痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!」
 「話しているこちらが身をよじってるが、まだ続くぞ。次はさらに痛い。エントリー4“ガラスになった足の爪”」


 ガラスになった足の爪

 忘れもしない大学2年の夏。あのやけにクソ暑い日に破れた網戸を直そうと、まずはサッシをはずしにかかったが、こいつがガクガクしていてなかなかはずれない。業を煮やして、いや、これはオイラの悪いクセなんだが、面倒くさくなるとどうにでもなれと無茶をやるんだよ。力まかせにグイッと引っ張ると、見事抜けたと思ったとたん、外枠がはずれて、内側のガラスがスルスルっと……わかる? 一次関数X=2Yのあの直線に沿って重いガラスがすべり落ち、こともあろうに足の親指を直撃! マジ、1分間くらい気絶していたと思うよ。あたりは血の海よ。友人の車で救急病院行き。骨には異常なかったけどね。ただ親指の爪がさ、ガラスのように砕けて、剥がれるんならまだしも、これが指の肉にズブズブとめり込んでる。で、外科手術さ。変な椅子に座らされてね。局部麻酔してるからチクチクッとする程度なんだけど、マズイことに見えるんだな、手術の様子が。連中、“ヤットコ”で抜いてるんだぜ、爪をよ。うわあ、こりゃいかんって目をそらすんだけど、不思議だねえ。また目がそこに行くんだ。それでまたウギャー。いやもうひどかったです。夏に1ヶ月間足を洗えなかったので、なんか“都こんぶ”みたいな臭いしましたね。

 「……痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い上に臭い!」
 「いよいよ最後だぞ。我が生涯でいっとう痛かったこと……」
 「あ、ちょっと待って。いきなり言わないで。心を落ちつけるから。スー、ハー……いいよ。一番痛かったのは何?」
 「歯医者の神経麻酔注射」
 「え? それって普通じゃん。ここまでのまるで異常なシチュエーションに比べたら、わりとよくある痛さじゃないの」
 「いや、間違いなくこれが一番痛かったね。何かショック死寸前まで行った感じ」


 ショック死一歩手前の0.1秒

 いや、ほんとに痛いです、神経注射。あのさ、虫歯の治療で、上の歯と下の歯でどちらが痛いでしょう? こりゃもう圧倒的に上の歯なわけ。それも奥歯ね。ここが一番痛い。そこに麻酔注射だ。もう昇天よ。「はい、ほんの一瞬チクッとしますよお」だと? 歯医者のヤロー。ありゃチクッてなもんじゃないぜ。グゥワーンッ! て来たとたん、一瞬目の前が真っ暗になって、地獄の門がちらりと見えたからな。確かに一瞬さ。ほんの0.1秒。でもあの痛みがそれ以上続いたら、そう、ほんの1秒でも続いたら、間違いなくショック死よ。その場合、死因は虫歯ってことになる。

 「というわけで、2回にわたって痛い話をしてまいりましたが、いかがでしたでしょうか」
 「番組では皆さんからの痛い話を募集しています。宛先はtsukiji.or.jp 築地魚河岸“痛い話”係まで。採用された方にはアスピリンを差し上げます」
 「皆さんからの激痛と絶叫に満ちたお便りをお待ちしてまーす。さて次回は“痒い話”など……」
 「え、本当にやるの?」
 「んー、やっぱ、やーめた。」


 築地魚河岸大学入試予想問題

 あの超難関で有名な、ていうかワリと誰でも入れるみたいな、だいいち無試験じゃないか、
 というところの名門築地魚河岸大学の来年度の入試予想問題ができました。
 魚大生を目指す受験生の皆さんは、しっかり予習するように!

【英語】

次の英文を読んで、後の設問に答えよ。

All the Japanese wake up early in the morning and go to Uogashi to buy a lot of fish. They push carts from neighborhoods. Upper class guys come by automatic tricycles that is called Tarlette. Japs eat fish raw --foolish! Among other things a tuna is their special favorites. A big and fat tuna is called Utamaro,and it is expensive.
The price of a tuna in Uogashi is decided by the people who shout on the stage in the auction place. Only the peaple who shout in loudest voice can buy tuna and he can get brakefast in that day. A leading figure who is called Aniki judges it. When a tuna is sold. He says “a-so,it to this guy”. So,a guy in a loudest voice is regarded as successful person in Uogashi.
( a ), a market person dosen't wear so much,they walk without cloths on in the midwinter --stupid! And they always keep smiling. Because Westerner can't understand the reason of there smiles , there are some people who feel uneasy.But in fact,the mysterious smiles are Buddhism. Anyone of Uogashi persons is Buddhism master ,isn't he ? Most of them wear rubber boots and carry the hand weapon called “Tekagi” on the waist. Because they always shout when they talk with somebody,
It looks like quarreles. However,they don't have a malice at all.
We can wacth various kinds of Jap in Uogashi. The fat man who wears “chong-mage” hairstyle is a sumo wrestler playing Japan national sport. They come to buy materials of“chanko soup”which is a source for their power. A party with long line is called daimyo line. It is a line of samurais with the daimyo on the top. They must kneel on the ground ( b ) they look at Daimyo. Samurai wear swords with two different lengths, and he commits hara-kiri when his dignity are disgraced. And a daimyo is a large-scale samurai. A person seeking after life of a daimyo is a ninja. He draws
near without a sound ... and kills him! Military hardware of a ninja is syuriken darts.
Uogashi is the world of a man in a feudal society. But, Geisya-girls who live there blow off a barbarian man.
Uogashi is the really mysterious place.
It's a mad mad mad mad world!


 問1 次のうち本文と一致しないものを一つ選べ
  @ The guy shouting in a loud voice in the auction place sells tuna.
  A Uogashi is the feudal man's world, but the women are very strong.
  B People of Uogashi smile like Bodhisattva.
  C A sumo wrestler wears a chong-mage on the head.

 問2 次のA〜Dの語句を説明するものを、下の@〜Cより選べ
  A daimyo       ( )
  B chanko       ( )
  C mysterious smile  ( )
  D barbarian      ( )
  @ people living in the man world.
  A the person who makes the samurai big.
  B smiles like Buddha.
  C soup which makes the sumo wrestler strong.

 問3 空欄( a )に入れるのに最も適当なものを選べ
  @ Just like
  A Check it!
  B By the way
  C Shit!

 問4 空欄( b )に入れるのに最も適当なものを選べ
  @ as soon as
  A so that
  B even if
  C in addition

 問5 次の@〜CにおいてABが同じ意味となるものはどれか
  @ A They should stop eating for fish directly.
     B They should stop to eat for fish directly.
  A A Their smiles look like a Buddhism.
     B Their smile looks as if it were a Buddhim.
  B A Aniki was probably a good person.
     B Aniki should have been a good person.
  C A He is tired of cutting a fish.
     B He is tired from cutting a fish.


【国語】


 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 実在的な生鮮品があるならば、夢想する魚介類さえも食卓を飾るということを僕らは忘れてはならない。味覚は五感によるものであるから、食という行為は食欲の醸し出すイマジネーションの所為であるのである。即ち料理の核心に想像力があると人はいいもする。想像力こそが食の創造と受容の本質だということから、(1)そこを越えて想像力は生鮮市場形成において、欠くべからざるものであることも、また論をまたない。( a )想像の力について本当に理解されているのだろうか。想像力という言葉を生活用具のように僕らが使う時、その用具の性格や性能をよく知って使っているといえるのか。
 そこに凡ての問題性がはらむのだ、と思ってもよい。何故なら想像力は魚介類に求むるのでなく、あくまでもそれを調理するところの個人の能力に委ねられるべき事柄だからだ。今ここに一疋の鮎が泳いでいるとして、かの魚は自ら塩焼きにされることを思い描いているか。 否 、そうは思うまい。鮎の塩焼きを欲するのは観察者たる人間の側にあり、鮎は水中での抵抗を押さえるために、その流線型を保つことを心がけるのがせめてもの意思であろう。したがって想像力を内包するのは常に人間のアドバンテージとなり、また、心のうつろいをそれに託して鮎に恋を語らせるなどは詩人の領域となる。ここに魚と人間との(2)ポリフォニックな関係が生ずることに気づく者は多いはずだ。(イ)カンゲンすれば人間の文化的存在に想像力という用具が絶対必要であると知る者のみが夢想する魚介類を食卓に載せることが出来るとさえいえる。
 とまれ僕らの想像力は流動する社会の中で慄き震えている。毎早朝には中央市場に数え切れないほどの魚介類が水揚されが、そのひとつひとつにどれほどのイメージを人は結ぶだろう。それらを一個の意思の下に繋ぎ止めることは最早不可能である。そのために想像力の分散化が速やかに行われねばならない。即ち市場の分化機能であり、迅速性を旨とする魚河岸の(ロ)メンモクヤクジョが俄然頭をもたげて来る。分化は役割分担という形に帰納し、荷主・荷受・仲買・小売から消費者というフローチャートが用意され、驚くべき高速度により遊泳する魚が捕獲され分配され調理され捨てられ形を換えて食卓に上り、人々の食卓に供される。謂わば僕らは魚そのものと共に極度に(ハ)サイブンカされた想像力を味わうことになる。
 そのシステムにいかような欠陥を指摘されるにしても、そうした組織下において関係者は想像力を切り売りするのであり、その負担は著しく軽減されるし、時間的経済的余裕を享受することとなる。荷主は魚を獲れば良いのであり、荷受はそれを集めれば使命は終わる。市場に働く人々は早朝から午前中まで働けば良く、別のアルバイトに糊口を継ぐことも出来る。そこがいいという市場人も少なくはない。
 (穴熊棋士郎「魚と市場と私の日常」より) 


問1 (1)「そこを越えて」の「そこ」とは何か。最も適切なものを一つ選べ
 @ 味覚は五感であるという認識
 A 食事を作ることは想像力を使うことだ
 B 食の追及は人生を賭けても届きそうでなかなか届かない最終目的だ
 C ソフィティスケイトされた生活スタイル

問2 (2)の「ポリフォニックな関係」に近い関係を一つ選べ
 @ 横丁の後家さんといやらしいご隠居の関係
 A 矢吹丈と力石徹、カーロス・リベラ、ホセ・メンドーサとの関係
 B セイゴとフッコとスズキの関係
 C 田中真紀子と鈴木宗男と辻元清美の関係

問3 ( )内 a を補うのに最も適切なものを次のうちから選べ
 @ ていうか
 A この辺りの者でござる
 B 閑話休題
 C 御名御璽
 D (^o^)

問4 (イ)〜(ハ)を漢字に書き改めよ
 (イ) カンゲン
 (ロ) メンモクヤクジョ
 (ハ) サイブンカ

問5 この文章の内容を要約していると思われるのを次から選べ
 @ 想像力とは心性なものであり、ともすれば食文化の基本をなす
 A 荷主・荷受・仲買・小売から消費者へと商材が流れる
 B 夢想する魚介類を食卓に載せるには、想像力が必要だ
 C 想像力は大切だということ
 D 魚河岸は仕事が早く終わるし、ワリと楽でいいや


 【社会】


T 初の人類といわれる、ピンマルトロプス・ツキヂ原人が現れたのは今から100万年
前の、地質学でいう洪積世初期である。この時代の人類は手カギや手ヤリなどの磨製
石器を用いていたが、冷凍マグロや冷凍エビを保存するための冷蔵庫を製作・使用し
ていないことから、先冷器文化とか無冷器文化と呼ばれている。

   問1 人類初の冷蔵庫とされるのは次のどれか
    @ 竪穴式ダンベ
    A 高床式ストッカー
    B 甕ガンバコ
    C 超低温貝塚


U 645年、中落固毬(なかおちのかたまり)は中斗呂皇子(ちゅうとろのおうじ)と謀り、
蘇我赤身・血合を亡ぼして脂の乗った政府をつくり、これまでの赤身中心の鮪から脂
身を重要とする中トロ集権国家への転換が行われた。

   問2 この時代の代表的な遺跡は次のどれか
    @ マグロ塚古墳
    A トロ遺跡
    B ツキジ板舟宮陵
    C 魚河岸京跡

V 次の文章は大航海時代にゲゼル・ゲマインシャフト提督の記した「長靴国探訪記」の
一節である。
   「……我々はとうとう伝説のツキジパングに到着した。しかしそこは言い伝えのよう
な黄金の国ではなかった。 そこには長靴族という大声を出す人々がいて魚を売って
いた……無数の魚を前にして壇上の(a)が祝詞を上げると取り囲んだ (b)が手踊りをしている。 それは、この土地では(c)と呼ばれる宗教儀式だという」

   問3 文中の(a)(b)(c)にそれぞれ当てはまる語を選べ
    @ (a)お立ち台ギャル (b)パラパラ    (c)盆踊り
    A (a)セリ人     (b)ナカガイ族   (c)セリ
    B (a)陰陽師     (b)アワオドラー  (c)踊る宗教
    C (a)神主      (b)八百万の神   (c)大葬の儀

W 次の文章は市場における自然権としての所有権の由来を示すものである。
   「……オレ様の食うマグロ、ウチの軽子の運ぶマグロ、オレ様のおろしたマグロ、客
に呉れてやるマグロは、 誰の譲渡も同意もなしに、オレ様の所有物となる。
……こうしてオレ様の大好きなマグロがそれに対するオレ様の所有権を確立したの
である。」

   問4 これは誰の唱えたものか
    @ ヘンリー・メイン・フィッシャーズ13世
    A ロック・ポップ・エンカー大公
    B ブルフィン・ツナスキー卿
    C コアゲ・カルーコ伯爵

X 第二次世界大戦後の世界は、米ソの“冷たい戦争”により世界が二分されたが、その
冷たさが影響してか、冷凍技術の急激な進歩によって冷凍水産物が市場にあふれた。
それはさておき、ソ連邦を中心とするワルシャワ条約機構に対してアメリカを中心と
したのがNATOだった。

   問5 このNATOとは何の略か? 比較的近いものを選べ
    @ 北大西洋マグロ機構
    A 国際自動トイレ操作規格
    B 新青森貿易組合
    C 内藤・荒木・高野・尾花


 連續諜報活劇 ツキヂより愛をこめたスパイは二度死ぬ


(第1囘 發端)

 カダダラダマ山脈に沿って延びる駱駝街道が西印度洋の海岸線にたどりつくと、險しい道中に突然拓けたやうに交易街マキャラムが現れる。古ドラヴィデア王國のいにしへを現代も色濃く殘すこの灌漑都市では、生姜水の甕を頭に乘せたタミル人娘の賣り子と、いかがはしい青玉石を高價く賣つけやうとするカスワ商人の鋭い目附きと、奇跡的にチップを要求しない案内者組合の勸誘と、さして愉しげでもない顏の歐羅巴人や亞米利加人の觀光者のカーキ色膝切りズボンの集團とが、それぞれに混ざり合ひ、わあーんといふ反響を伴ひながら、氣ぶりめいた午後にゆっくりと傾いてゐる。
 私の名はブロードヴィル・ソードフィッシュ、某國の特殊諜報員だ。
 かなり無茶な仕事をやり遂げ、しばしの休息をこの南半球の島國で過ごさうとやって來た私は滯在數日で既に飽き飽きしてゐた。この平穩な土地では何もかもが舊態然として變化などまるでない。すべての時間が引き延ばされて、弛んだ記憶の中に土地の人々は住む。おそらくかれらは十年前の事も昨日のやうに話すだらう。
 大洋に面した珈琲店キャフェ・マドラスの簡便な椅子に腰掛けると、南西の貿易風が火照った顏を撫でる。太陽に酔った鋪道や海風に侵食された建物の壁に目を遣りながら、給仕の運んできた土耳古珈琲を口に運ばうとすると、突然、カップの中から朝顏のやうな潛望鏡が現はれ、くるくると囘りながらこちらを向くと、突然話しかけて來るので吃驚した。

「お早う、ソードフィッシュ君。せっかくの休暇を濟まない。さっそくだが重要な任務だ。ヤポン國が極秘開發中の"ミツウロコ27"が實は軍事兵器であることが判明した。既に某國の地下組織も暗躍との情報も入ってゐる。さっそくツキジ・ウオガシティに潛入し、"ミツウロコ27"の開發資料を入手せよ。現地には012號ユウコがゐる。かの女を通じてタージマハルと接觸されたし……」

 おお、ヤポン國! 東洋に浮かぶ謎の島。サムライとニンジャの横行するファンキヰな國。ゲイシャ、フジヤマ、ハラキリ……樣々なエキゾチックな想像が頭を驅けめぐる。私はヲイランとのスキヤキな一夜を想像して胸をどらせた、ドウモドウモ……

「……なほ、この通信は、あと十秒くらゐで大爆發する」

 糞っ、いつもこれだ。諜報局の連中ときたら何かといへば爆發させねば氣が濟まぬときてゐる。
 椅子を蹴り上げ、卓臺を倒し、觀光客や給仕たちをかき分けながら外に出ようと小走りで入口にたどり着いた途端、
  ドドーン!!
 物凄い衝撃と共に椰子の木造りの簡易な珈琲店は客もろとも吹っ飛んで了った。その瞬間のとてつもない爆風によって私もまた一町近くも跳ね飛ばされたが、運良く海に落っこちたために一命をとりとめたやうだ。陸の上は突然の災厄によってK山の人だかりの大變な騒ぎである。私は海から首だけ出したまま近くを通りかかったタミル人に尋ねた。
「ヤポン國のツキヂには行くにはどうしたら良いか?」
「オー、ヤポン! ムシュウ、ヤポンに行くならそのへんでミナミマグロをつかまへて、それに乘って行けば明朝にはツキヂ・ウオガシティに到着するあるヨ、ボンソワール!」
 親切なタミル人に教へられるまま、私はミナミマグロの背にまたがり、一路ツキヂ・ウオガシティへと向かった。


(第2囘 魚河岸の女親分)

 ヤポンは日出ずる國といはれ、夜明けのはじまる場所だといふが、なるほど、このウオガシティでは、未だ夜のとばりの上がらぬうちから長靴を履いた騷々しいツキヂ原住民たちが忙しく動き囘り、暁の準備に余念がない。世界中の朝はここから始まるのだらう。それにしてもこのウオガシティ全體を覆ひつくさんばかりの魚の量は何だ。あまりのにほひで意識を失ひさうである。ヤポン人は世界一の働き者で魚を食する種族とケンブリッヂ時代に教はったが、確かにそのやうだ。
「ア、ソー、このばかやらう! ぼやっとするねい!」
 突然、小車を引いた圖體の大きな男が後ろからぶつかってくるなり、ひどく耳ざわりな言葉で怒鳴った。
「ドウモドウモ、この下司やらう! 何ィ突っ立ってやがんだ、コンニチワ!!」
 こんなところで原住民と係ってはいられない。私は早々に立ち去らうとするのだが、しかし相手はなかなか許してはくれない。
「カラオケ! いってえテメエはどこのモンだ。ええ、返當をしねいか、この丸太棒が。カイシャ! スシ! カブキ!」
 私が無抵抗だと知ると男はいっさう聲を荒げた。この騷ぎをききつけて、いつのまにか私らの周囲を何十人ものツキジ原住民たちが取り囲んでゐる。かれらはめいめいに腰に手ぬぐひを提げ、手鉤を握るか、何とかいふお頭付の魚を手に持ち、その黄ばんだ顏の眞ん中には胡乱な眼つきがある。何を考へてゐるのか分からぬ眼差しに私は恐怖すら覚へて、思わず胸のワルサーPPKを握りしめた。するとその時、
「ちょいと待ちな!」
 威勢の良い掛け聲と共に人だかりを割って這入ってきたのは、腹掛けに印半纏、捻り鉢巻の割腹の良い人物。ここでは余程の顏なのだらう、それまで居丈高だった男が急に大人しくなってしまった。
「お前さんがた、この毛唐は今日からウチの軽子になったもんだ。何か文句があるなら、この魚寅のおユウが承ろうじゃないか」
「バンザイ、姐御そんな滅相もねへ、いや、失礼しやした、サケ、ウタマロ…….」
 驚いたことにこのおユウといふ大人物は女らしい。かの女のひと言で男はすっかり恐縮して去って行くと、人垣もあっといふ間に散会した。さうして人を廢しておいて、こちらに向きなほるとかの女は謂った。
「007號――Mr.ソードフィッシュ、到着早々騷動とは、これがお前さんのお國の流儀かへ?」
「するとアンタがユウコ、012號か……?」
「まあお待ちよ。こんな所では話も出來やしない。指令は追々來るのを待つとして、それまではとりあへずお前さんに魚河岸の人間になって貰はうぢゃないか。さっそくこれに着替へてお呉れ」
 さう謂って手渡された風呂敷包みには、このツキジの原住民が着ているやうな腹掛けに脚半、長靴などが入ってゐた。さっそく身に着けてみるがどうにも居心地が悪い。
「寸詰まりなのはいっそ仕様がないハ。窮屈だらうけど我慢して貰はう。ところでお前さんの名だがね、まさか諜報部員のコードネイムも使へないから、ぐっと日系風に、さう、ゼイムス主水なんてどうだらう」
「ゼイムス・モンド……よりスパイっぽい名のやうだが、まあ良いだらう。時にユウコ、私はこれから何うするのか?」
「敵の目を欺くために、當分の間、妾の店で軽子として働いて貰ひたい。給与は日給月給。有休なし、休日手當てなし、各種厚生福利全くなし、などの条件で如何?」
「まあ、好きなやうにして呉れ……」
 かうして私は仲買店「魚寅」の軽子としてこのウオガシティで働くこととなった。
 數日のうちに仕事も覚へこの土地にも馴れた。大きな魚を運ぶ仕事は骨が折れるが、勞動の後の「サケ」は格別だったし、あんなに奇妙に映った原住民達も打ち解けてみればなかなかのナイスガイで、今は私の仲間であった。いつしか私は任務を忘れてここの生活にどっぷりと浸り、いっそこのまま本國に戻らずここに骨を埋めても良いとすら考へてゐるのだった。


(第3囘 ウオガシティ)

 ウオガシティは今から65年前につくられ、以來トーキョー市の胃袋を満たすために休むことなく稼動して來た。そのあちこちには老朽化の痕も見られるが、ナラ・ホーリュー寺を模したといふ壮麗な伽藍建築が今なほここを訪れる者に敬虔な氣持ちを起こさせる。とりわけ場内中央に聳え立つ五重塔が眼下の人々を威圧するやうにK々としてゐるのが印象的だ。
 「おう、あぶねい! どいたぁ、どいたぁ!」と威勢の良い掛け聲と共に走り回ってゐるのはイッシンタスケと呼ばれる魚屋だ。かれらは天秤棒といふ荷台を肩から提げ、もの凄い勢ひで人を突き飛ばしながらやってくる。たとへ人がいなくても「おう、どいたぁ!」の掛け聲を忘れない。通り過ぎても「おっといけねへ、盤台忘れた!」などと謂って戻ってくるので注意が必要だ。
 マゲ・ヘアーにしてゐるのはサムライかリキシである。サムライは大小のソードを腰にさしシュクンのためなら命を捨てることもいとわない。名誉を重んじ、恥をかくとハラキリをして汚名をそそぐ。リキシはヤポン國を代表する国技の戦士だ。「どすこい!」とかれらが張り手を打てば、かの重戰車カタパルトすらも横轉するだらう。かれらはチャンコの材料を探しにウオガシティにやってくるのだ。
 ヤポン人に共通してゐるのは、かれらが一樣にミステリアスな微笑を浮かべてゐることだ。ヤポンを訪れる外國人には、その微笑に対して全く理解出來ずに嫌惡さへ感じる者もあるが、ヤポン人の心の底流にあるボサツ信仰を理解出來なければ、その微笑の意味を知ることは不可能であらう。かれらこそ慈愛の光を容貌にたたえた、實に慎み深い種族なのである。
 私はお得意先へマグロを届けるために、ゲイシャを乘せたジンリキ・カーやダイミャウ行列の集團で雑踏をきはめるウオガシティ内をうまくすり拔けるやうにして小車を引いてゐた。すると突然積荷のマグロが話しかけて來たので吃驚した。

「お早う、ソードフィッシュ、いやさゼイムス・モンド君。マグロを配達のところを濟まない。本日08時、タージマハルが行動を開始した。さっそく合流されたし。合言葉は"ガラン――マサラン"……」

 さうだ、私には重要な任務があったのだ――ウオガシティの生活に浸り久しく忘れかけてゐたスパイの血が甦り、私は全身が引き締まる思ひがした。

「なほ、この通信はあと10秒くらひで……」

 お終いまで聞いてゐる隙はない。私はウオガシティにごった返すイッシンタスケやサムライやリキシたちを押し退けて、走った、走った、走った。
  チュッドーン!!
 どひゃー、危ない危ない。諜報局からの通信がいつも爆發するのには慣れっことはいへ、今回も茶屋を吹っ飛し多數の死者が出た。私はセリ場の石疊に投げ出されたものの一命をとりとめたのは運が良かったとしか謂ひやうがない。
「主水、いよいよお別れね」
 倒れてゐる私を見下ろすやうにユウコが立ってゐた。
「ツキヂは危險な所よ。今まで多くの諜報員が隅田川に浮かんだハ。お前さんがドザヘモンにならないやうに私からちょっとしたプレゼントをお渡ししませう」
 ユウコはさう謂って指差すと、そこに妙な乘物が置いてあった。それは「ターレ」と呼ばれるイチバで使われてゐる運搬車だ。
「見た目はターレだけど、數々の仕掛けがしてあるのよ。まずエンジンはラムジェットα型で最高速は、ええと、光速……」
「光速だって!」
「あ、それはちょっと大げさ。せいぜゐ25km/hくらいかな。それからミサイルランチャを2基搭載してゐるハ。こっちのボタンが熱反応追尾型核ミサイル、こちらは超大型馬糞式ボムよ。それとこのレバーを引くとプロペラが現れて小型戦闘ヘリに早變はりするし、こっちのスヰッチで小型潜航艇に變化する。まあ、水陸空萬能ターレってところね……どう、このモンド・カーが氣に入って?」
「もちろんだとも。それにこのモンド・ガールも最高さ」
「主水……」
「ユウコ……」
 情に溺れてはならない、はスパイの鐵則だ。私はしだれかかるユウコを突き飛ばすと、ターレに飛び乘り、エンジンを囘した。
 ド・ド・ド・ド・ド……


(第4囘 魔都)

 ウオガシティの外側にはジャウガイ・シジャウといふ小賣店の立ち並ぶ一劃が廣がってゐる。狭い路地が目まぐるしく入り組み、怪しい商品を竝べる軒先は通行人の足元にまで迫ってゐる。毒々しい看板には"大賣出""烏賊""消費税"などの文字に混じって"スパイ用心"の標語も見られた。通りを行く人々はインパネスの襟を立てて――何か隠し事でもするやうに――その表情を見せやうとはしない。この街はかの上海と同じやうに正に魔都と呼ぶにふさはしい容貌をしてゐる。
 異国の風情に目を奪はれてゐると、ふいに私の視野に頭にターバンを巻いたそれと見て印度人と分かる男の姿が飛び込んで來た。かれはこちらを一瞥すると剥製店の海豹の標本の影に姿を消した。彼奴だな――私はさう直感した。かの男こそタージマハルに違ひない。すぐに後を追うと、男は曲り角を曲った処でいきなりこちらに向きなほり、ぼそりと言った。
「ガラン」
「マ、マサラン……」
 私が合言葉を口にすると、相手は急に肩を抱かんばかりに相好をくずして話しかけて來た。
「オー、ナマステ、ナマステ。お待ちしておりましたッス。さっそくご案内しまッス」
 男は先に立つと路地を抜け、一軒の印度料理店へと私を招き入れた。かれは店に這入るなり店主に、いつものやつをと目配せし、私に席を薦めておき、自分は――何と卓臺のうへに胡座をかき、手で空をつくると眼を閉じてしまった。
 ゼンだっ――私は腰を抜かさんばかりに驚いた。噂に聞いてはゐたがゼン・ブッディズムを實際に見るのは初めてである。男はすでに境地に達し、魔女に魅入られた者のやうに身体が石化してゐる。
「このシトまた"ヨガの眠り"やってるヨ。ほい、起きる良いネ! ライスカリー出來たヨ!」
 店主が石油罐で思ひっきり頭を張り飛ばすと、男の身体は元に戻った。そして眼前のライスカリーを認めると、"くわっ"と眼を見開き、口上を述べながら、猛然と喰いはじめた。
「一杯のライスカリーこそカリーと飯との二元論の世界での戰、そう天下分け目の戰なのでッス。最後の覇者はカリー軍か飯軍か、遠巻きにするは福神漬、紅せうが、らっきゃう等、藥味の軍勢。トキの聲と共に世紀の決戰の始まりだーっ。軍勢に於て優勢なカリー軍は魚鱗の陣、一方飯軍は鶴翼の陣を引いて応戰。飯の防護柵を破られ、辛戰を強いられる飯軍! これはピンチだーっ!」
 呆気に取られる私の前で、口から飯粒を飛ばしながら男の熱弁は続く。
「ああ、その時であった。突然のシャガイモの寝返り。イモは飯側に付いたぞ。浮き足立つカリー軍。飯軍はさらに福神漬けを味方に、衆を頼んで責める。そうして勝負は互角のまま最後の一口へと、そのフィニッシュを私は今、決めたーっ、ゴール!ゴール!ゴール!ゴール!ゴール!ゴール!ゴール!ゴール!ゴール!ゴール!ゴール!ゴール!……」
 バッコーン!
 私は渾身の力を込めて男の頭を石油罐で張り飛ばした。
「いいか、本題に入るぞ。"ミツウロコ27"の書類は何処にある?」
「ほえええん。何のことッス? 長靴ッスカ?」
「とぼけるな! 私を誘い込んでおいて、お前はタージマハルぢゃないのか?」
「タージマハル? いえ、私はカレー研究家の田島ハルといいまッス。」
ああ、何といふことだ。私は連載1回分使って無駄を過ごしてしまった。
「あ、貴方の探してゐるのは、もしかしたら"モンゼキ"の親方のことではないッスか?」
「"モンゼキ?" それは何のことだ」
「ここをちょいと行った処にある寺院ッス。ああ、さういへば、親方最近變った研究を……うっ!」
「おい、どうした。その先を謂へ。おい! むっ、手裏剣!」
 哀れニセ印度人田島ハルは何者かの手裏剣を背に受けてすでに絶命してゐた。
 魔都ツキヂの恐ろしさを目の當りにして、私は思わず全身が総毛立つのを感じた。


(第5囘 死靈の盆踊り)

 華麗なるガンダーラ建築。曲線と直線の綾なす形式美は、ここが極東の島國であることをしばし忘れさせる。巨大寺院“モンゼキ”は木と紙とで拵えたヤポンの街竝みを威壓するかのやうに堂々と聳えたってゐる。先程から響いてゐる陽氣とも陰氣ともつかぬ音樂に誘はれて門内に這入ってみると、何かのフェスティバルであらうか、“ユカタ”を着込んだ男女が太鼓の音に合せてくるりくるりと囘ってゐるではないか。これがかのBonDancePartyといふものか。私はその輪の中で“パラパラ”踊りをしてゐる“ヤマンバ”に尋ねた。
「おい、そこのドジンたち。タージマハルはどこにいる?」
「ていふか、何このガイジ〜ン? みたゐな、土人ってそれウチらぁ、テフムカツクー! みたゐな、ボコルー! みたゐな」

 ボス! ガス! ドス! バキッ! グシャッ! ボコ! ボコ! ボコ!

 “ヤマンバ”の集團にボコられた私は不覚にもいささか氣を失い、目覺めると妙な場所に運ばれてゐた。何だここは! 私は周圍を見囘して愕きの聲をあげた。
 禮拜堂くらいの廣間の中央には象も乘るかといふ大皿がしつらへられ、そこには世界中のあらゆる珍味、果物、酒類が置かれてゐる。そして廣間のあちこちには古今東西の有名人たちがニコヤカに歡談してゐるではないか。
 ルイ16世が北京ダックを頬張りながら熱心に卑弥呼を口説き、その横では毛沢東とケネディが野球拳をしてゐる。あちらの卓臺ではチンギス・ハーンと諸葛孔明と織田信長とロンメル将軍とが國境を越えた四人打麻雀に打ち興じれば、傍らでは、エルヴィス・プレスリー、ジョン・レノン、マーヴィン・ゲイ、フレディ・マーキュリーといふ夢のセッションが繰り廣げられ、それに合せてシーザーとナポレオンとヒトラーがラインダンスを踊り出す。「あ〜らゼイさん、そんな處でなによぅ」と謂ひながら、シナをつくってグラスを差し出して來たのは何とマリリン・モンローだった。
 何と謂ふ眺めだらう。ここは死んだ有名人たちの宴の間なのだ!

  死靈の盆踊り、お氣に召されたかな?

 騷然とする空氣を引き裂くやうに重々しい聲が響くと廣間内はしんと水を打ったやうに静かになった。聲の主は臺座の上に向かう向きになった囘轉椅子に腰掛けてゐるのだらう。椅子の背越しにパイプの煙が立ち昇ってゐる。この人物がタージマハールであらうか?
「ガラン……」
「いや、相言葉は良いよ、ゼイムス主水君。君の來ることはすっかり分かってゐた……」
 さう謂ふと、くるりと椅子が囘り、こちらを向いたその人物を見て、あっと聲を上げてしまった。かれが新聞紙を丸めたやうに皺くちゃの30センチほどの小人だったからだ。
「ふぉふぉふぉ、この姿が面白いかね。儂は精神力のみですでに300年も生き長らへておる。しかし、どうにも人間の肉體には限界があるやうでな……」
 タージマハルは口にチューブをくわへると傍らに置いてある酸素ボンベ状のバルブを開き、自分の體内に空氣を送り込んだ。とたんに椅子の上にムクムクと風船のお化けのやうなものが起ち上がりこちらを凝視した。皺はすっかり延びきった變はりにかれは一氣に3メートル近い大男に變身して了った。
「この方が話し易いだらう。さて、ゼイムス君、何か質問はあるかね」
「タージ……マハル。つまりその、この部屋のこれが“ミツウロコ27”なのか」
「ふぉふぉふぉ。これかね。これは反魂の術といふ中ツ國傳來の死者を甦らせる秘儀じゃよ。しかし未だ開發中でな、不完全なのだ。ほれ」
 タージマハルが指差すのに從って振り向くと、そこには今まで繰り廣げられてゐた酒宴も死者たちも料理も消へ失せ、ただ動物の骨や土くれのみが空しく積み上がるばかりだった。


(第6囘 謎の研究所)

「さて、ゼイムス君、君の求めてゐる“ミツウロコ27”の設計圖だが、實は儂の自宅兼研究所にある。さ、一緒に來るが良い。左樣、專用の地下車輛に乘って行かう」
 タージマハルは目、鼻、口から空氣を拔いて少しづつ縮みながら私を薄暗い階段へと案内すると、ずんずん階下へと降りていった。やがて明るい場所に出ると、そこには「日比谷線」と記された案内板がかかってゐて、周圍には乘客らしき姿も多い。どう見てもここはメトロのステンションのやうだ。
「ピピーッ! 列車が來ます。はい白線までお下がり下さい!」
 信號旗を持った乘務員らしき男がやって來て私を後ろに押しやった。
「タージマハル、專用の地下車輛と謂ったが、これは普通の地下鐵ではないのか。あたりにゐるのは乘客や乘務員ではないか」
「ふぉふぉふぉ、かれらは乘客に見せかけた儂の手下どもぢゃよ。まあ乘れば分かるて」
 やがておごそかに列車が入線して來た。どう見ても普通の地下鐵であるが……プシューッと扉が開き、中に這入って、あっと愕いた。こ、この列車は……
「お座敷列車ではないか!」

♪♪♪♪♪ ♪タラ〜ラ〜、ラ〜ララ〜ララ…… ♪ ♪♪♪♪♪
  世界の車窗から けふは地下鐵日比谷線をお送りします……
  
  シベリア鐵道からいろいろと乘り繼いで
  列車は地下鐵日比谷線へとやって來ました。
  車窗からの風景は眞っ暗で何も見へません。
  貸し切りのお座敷列車は亂痴氣騷ぎを
  續けながら、けふも陽氣に進んで行くのです。

  ♪ララ〜ララ……明日は半藏門線へ到着します

「おい、ゼイムス君、さあ起きた、起きた。着いたぞ」
「いや、もう不可ません。もう飮めませんぜ旦那……」
「何を寢惚けておる。ほれ、涎を拭き給へ」
 うー、頭ガンガンする。何て殘る酒だらう。一体幾日酒宴を續けたのか。おや、ここは……何だ、ありゃあ。
 到着した私を迎へたのは、谷間を大きく跨ぐ100メートルもあるかといふ巨人像である。ロードスの巨像もかくありなんと思はせる偉容は、“ガチョーン!”のポーズで靜止し、訪れる者を吸い込むかのやうに見下ろしてゐる。
「“K谷の巨人像”、偉大なコメディアンに敬意を表して作らせたものぢゃよ。さ、このかかとの部分が儂の秘密研究所の入口ぢゃ」
 こんな巨像作って何が秘密研究所なものか。私は宿酔で足元をふらつかせながら怪老人の後についた。細い通路を幾度か曲がり、やがて廣い部屋に出た。如何にも研究室という風情の、試驗管だのフラスコだの得體の知れぬ電氣機械だのが竝んでゐるが何處かいかがはしい。
「ここで何を研究しているんです」
「儂かね、儂はな……」と謂ひかけたその時である。バリバリバリ! と壁を打ち破って眞っKい物體が部屋に亂入してくるなり、あちこちを駆けずり囘り部屋中を滅茶苦茶にした。
「バラーキ! バラーキ!」
 それはゴリラと見紛うほどの全身毛むくじゃらの大男だった。恐ろしい勢ひでこちらに突進してくる怪物めがけて一發お見舞いしやうとワルサーPPKを手にした時すでに遅く、私は撥ね飛ばされて、その太い腕が私の首に輪をかけてゐた。
「バラーキ! バババラーキ!」
「これ、これ、止めるが良い」
 タージマハルが銃のようなもので怪物を大人しくさせたと見えて、私はあやうく窒息を免れた。
「パラライザーで眠らせたから、もう大丈夫ぢゃよ」
「一體、こいつは何者ですか」私は首のあたりをさすりながら謂った。
「ふぉふぉふぉ、これはな、東西線乘入型レプリカント“バラキ中山”というやつでな。儂の荷物持ちにと作ったんぢゃが、まだ腦味噌を入れてないので馬鹿だ。ふむ、しかし妙ぢゃのお、こいつにはまだ動力を注入してゐなかったはずぢゃがな……」
 死靈にお座敷列車に馬鹿レプリカント。怪しげなものばかり發明するこの老人の正體とは……?


(第7囘)怪しい研究

「タージマハル、あなたの正體は……一體あなたは何物なのですか」
「正體とな! 君には儂が何物に見へるかね。ふぉふぉ、儂は最早この通りの皺くちゃの老いぼれ爺ぢゃよ。これまで儂は、この皺の數と同じくらいの年月、世間の表と裏をいやといふほど見て來た、歴史の觀察者としてな」
 何處が口だか分からない皺だらけの顏にパイプをくゆらせながら、怪老人はおごそかに語り始めた。
「儂が天竺で森蘿萬象、天象不變の奧義を極めたのはかれこれ300年前になる。四神相應を仰ぎ、奇門遁甲を良くし、不老不死を身に附け、世界の玉座に君臨することも實に容易いことぢゃった。しかし力なんぞといふものは、手にしてみると存外むなしいものなのだよ。世界の趨勢なぞ天地の運行に比ぶれば、子どものママゴトのやうなものさ。儂は敢へて世間から隱遁し、陰からこの世界を眺め、時にはちょっとした手を入れてやることに面白さを見出した。ふむ、盆栽をいぢるやうにな。ふぉふぉ、ふぉふぉ。
 さうさな、ルイ16世のためにギロチンを考案してやったのも、ウォール街の相場を操り世界恐慌を起こしてやったのも、アヰンシュタヰン君にアトミック・グッズの開發法を教へてやったのも、みんな儂ぢゃな。
 さうしてこの世界の觀察者として密かな愉しみを續けるうちに、各国のマフィアやらシンジケートといった小僧らが儂に群がって來おった。こちらもほんの道樂のつもりで連中の頼みをきいてやったもんぢゃよ。殺人兵器から集團精神攪亂裝置まで、儂はいろいろ造ったよ。それで世間が少し派手に動くるの見るのは、老後の愉しみぢゃからな。
 しかし今回の“ミツウロコ27”! こればかりはいかん。これは實に危險極まりない代物ぢゃ! 」
 怪老人はガサゴソと邊りを探し囘ると、私の掌に錠劑を數錠乘せて、どうぞ、と手で私に勸めた。多少不安な心持で、その錠剤を口に含むと、くっ、と水なしで飮み込んだ。それは、全くの無味ではあったが、咽喉の奧が何處となく生臭い感じとスーッと意識が薄らぐやうな妙な氣分を釀し出した。
「これはクロマグロの背鰭から抽出したミツタミン9の錠剤ぢゃよ。これは腦髓を活發化させる。そもそも人間の腦味噌といふものはその殆どが無意識下にあって、その能力を發動しておらん。このミツタミン9劑の成分は、普段は隱された腦力を表層化させ、人の思考力を幾数倍にもさせる働きを持っておる。どうぢゃね、頭がスッキリしたらう。君はもう無能な諜報員などではなく、すっかりと切れ者になっておるはずぢゃ。ただし、效果は數時間だがね」
 確かにそれまで頭の中を覆ってゐた靄のやうなものが晴れて、急に物事が明解になった氣がする。
 さうか、これが利口になったといふことか!
「さて、お次はこれぢゃ」と、今度は何處からか新品のグラスを見附けて來て私に手渡した。そして手許のフラスコから赤い液體を注ぎ込むと、一氣に飮れ、とばかりに目配せした。
 ぐびっぐびっぐびっぐびっぐびっ……ぷはー!
 何か苦い味がしたな、と思ったとたん、身體中が疼き出し、全身の筋肉が硬直し力がみなぎっていく。
 うぉぉぉぉぉぉぉ!
「ふぉふぉふぉ、君のやうなヤサ男をも筋骨隆々のマッチョマンにしてしまふ。これがウロコジウム3酸の恐るべき力ぢゃ。尾頭附の鯛の鱗から抽出した有り難い代物。本日は原液でご試飮していただいております。見てみい、アンタの姿はまるで超人ハルクのやうぢゃ」
 成程、身體中の筋肉が盛上り、別人のやうな逞しい姿になってゐる。そればかりか、物凄い力が湧上がって來て、私は暴れ出したい氣持で一杯になった。
「ウロコジウム3酸は人間の運動能力を極限まで高める效果を持ってゐるからのお。どうぢゃ、血湧き肉踊るといふ氣分ぢゃらう」
 またも、ふぉふぉふぉ、といふ笑ひ聲なのか空氣が漏れるのか分からない音を出しながら老人は言った。
「さて、儂はこのミツタミン9とウロコジウム3を掛け合わせた“ミツウロコ27”の開發に着手した。これこそ究極の人間を生み出す、人類の夢に違ひないと思うた。ところがぢゃ。完成したものは人類の夢どころか、この世界を暗Kに導く、あな恐ろしきものだった!」


(第8囘)トーキョー中央發狂市場

「人類の夢をかなへる積もりが、儂はとんでもない恐怖を創り出してしまったのぢゃ。これを見るが良い」
 タージマハルが手許のスヰッチを押すと、研究室の壁が靜かに開き、突然そこに、夕日をたたえた大地の壯大な景色が廣がった。これは――私は愕いて近寄った。
 嘗て文明など存在しなかった時代、世界はかうした未開の大地であったらう。赤土の荒れた原野を我物顏に行くのは獰猛な牙を備へたサーベルタヰガーだ。そして、かの暴君の一撃に斃された獲物の死肉に、そのご相伴に与らうと見たこともないやうな巨大な禽獣が今しも舞ひ降りやうと身構へ、彼方には空を赤Kく物凄い色に染め上げながら活火山が無氣味に鳴動を續けてゐる。何と謂ふ不気味な風景だらう。
 しかし、地獄繪圖めいたこの風景は造りものだ。ガラス一枚を隔てた向かうにしつらへた地獄の細工だ。おお、地獄の大パノラマ! だが、これはまったくの繪空事なのか? 遠くに蠢いてゐるのは人影ではないのか。さうだ、あれは人間だ。確かに數人の男女がこちらに向かって來る。現實? いや、これはやはり惡夢だ。彼奴等は人間ではない。いや、嘗て人間であったかも知れぬが、今はすっかり亡者に成り果てた餓鬼輩が、髮をざんばらに振り亂し、全裸で地を這うやうにして、一塊の肉片を求めて、もつれ合ひ、爭いながら、淺ましい姿を曝してゐる。
「殘念ながらこの連中は、最早理性といふものを持っておらん。ただ本能の赴くままに生きるだけぢゃ」
 ため息をつきながらタージマハルは再びスヰッチを押し、地獄の大パノラマは元のやうに閉じられた。
「かれらはこの研究所の元所員。ミツウロコ27の效用を確かめやうと自らが身を以って犧牲となした哀れな者たちよ。本來なら、この研究によって人類は完全なる種族へと進化するはずぢゃった。ところがこの有様ぢゃ。ミツウロコ27は、人間の能力を高めるどころか、腦を退化させ、本能にのみ生きる鬼畜道へと陷れ、人類の不毛を現出せしむる惡魔の藥だったのぢゃ。もしも、これが惡用されたら! 人類全體が發狂してしまふだらう。それこそこの世の終わり。いかん! これを奴等の手に渡す譯には、絶對にいかん!」
「奴等とは、誰です?」
「死の商人“鮪熊財團”ぢゃよ。上から讀んでもマグログマ、下から讀んでもマグログマ。金の爲なら人の命なぞ平氣で踏みにぢるといふ低俗な輩ぢゃ。奴等は決して表立っては現はれん。ちゃうど藤の木の根のやうに、社会のあらゆる場にその触手を伸ばし、富を吸い上げ、この世界を陰から牛耳っておる。やがて人類の幸福や命も、ほんの少しの笑みさへも支配し、細かく金に換算し、買ひ占めやうといふのぢゃ。
 そして今、奴等の狙ひはこのミツウロコ27にある。これを大量に生産し、ツキヂ・ウオガシティを通じて魚と共に全國に流通させ、この國全體を發狂させてしまふつもりなのぢゃ。つまり、さう。トーキョー中央發狂市場を造り上げるのが、目下の奴等の計畫ぢゃな。その實現のために、既に市場のすべての人間は、すっかり頭を狂わされておる」
 トーキョー中央發狂市場計畫!
 何といふ恐ろしい事だらう。死の商人“マグログマ”の魔手によってこのヤポン國全體が狂人の園と化す。そして、その中心にツキヂ・ウオガシティがあるといふのか。市場の狂った人々、狂った喧騷、狂った價値觀、低級な腦味噌の集團がこの國を狂はせてしまふなど、恐怖を通り越して、思はず笑ひ出さずにはいられない。
「はははははは!」
「君も少しおかしくなったやうぢゃな。先刻の藥の影響かね。まあ良い。いずれこの國の狂氣は世界中を覆ひ、誰もが鬼畜と化して、腦は溶ろけ、目鼻は崩れ、淺ましい獣の姿を曝すぢゃらうからな。しかも、その影響は子孫におよび、可哀相なのはこの子でござい。十勝の國は石狩川の上流で生まれ、或る日の事お父さん鍬にて蝮の胴體眞っ二つ。蝮の執念、この子に報い、手足が長く胴體に卷附くといふ。教育は參考資料、大人は十錢、子どもは五錢、片目は半額、はらみ女は二倍だよといふ位の恐怖ぢゃからのお。ふぉふぉふぉ」
 怪老人タージマハルは、人類の危機がさして心配でもなささふに、むしろ面白くて仕方がないといふやうに不氣味に笑ひ續ける。と、その時。

 「バラーキ! バラーキ!!」

 眠らされてゐた馬鹿レプリカント・バラキ中山が、突然猛然と暴れ出した。ハンマーのやうな両の腕をグルンに振りまはして、棚をひっくり返し、壁をぶち拔き、器具類を飛び散らかし乍ら、怒りに燃へた眼を見据えてこちらに突進して來る。
「やや、どうやらアイツは誰かに操られているやうぢゃぞ!」


(第9囘)囘轉する馬鹿野郎

 馬鹿レプリカント・バラキ中山は、ハンマーのやうな両腕を巨大な扇風機みたいにぶん囘し乍ら、周圍を滅茶苦茶に破壞しつつ進んで來る。
「バラーキッ、バババ・バラーキ!」
 やがてかれは、自らの軸足を中心に囘轉を始めた。それはオリムピックのスケータアよりも速く、ランドリーの乾燥機の遠心力を伴ひつつ、前後左右に搖れ乍ら、今や一個の凶惡な巨大獨樂と化して、恐るべき無軌道運動で迫ってくるではないか。
 ベキッ、バキッ、ガラガラガラ!
 物凄い轟音と共に壁が崩れ、中から剥き出しの本能に狂った男女が、作り物のサーベルタヰガーに跨って、あられもない姿で踊り出て來た。しかし、哀れにもかれらは高速囘轉する巨大獨樂の餌食となり四方に吹っ飛ばされた。獨樂の囘轉は次第に加速していき、焼けたコークスのやうに真っ赤になってゐる。
「これは、囘轉する馬鹿野郎ぢゃ!」タージマハルが呻くやうに呟いた。
「調子に乘って囘ってゐるうちに、自制心を失ひ、もうどうにも止まらなひ。永久に加速し続ける馬鹿野郎」
 巨大獨樂はさらに速度を上げ、青白い閃光を発して狂った運動を續けてゐたが、急に姿が見へなくなり、音だけがブゥゥンと不氣味に鳴り響いた。
「な、何ですか、これは」
「ついに囘轉が光速に達したやうぢゃな。これは危險ぢゃぞ。相對理論の關係で空間が歪み、大爆發する恐れがある。ふぉふぉふぉ……逃げるとしやうかの」
 が、時すでに遅すぎた。
 突然100萬ルクスの光で照らされて目が眩んだ途端、何者かに手掴みで腦髓をかき囘されるやうな衝撃と共に身體が宙に浮き、後は全ての記憶が定かでない。氣が附いた時には自分は瓦礫の下に突っ伏してゐた。背後にはひびだらけの支柱があり、どうやらそのお陰で自分は圧死を免れたやうだが、周圍は崩れた鐵骨と瓦礫の山で、研究室は見る影もなく破壞しつくされてゐた。最早バラキ中山は亞空間へと飛んで行って了ったのだらう。何一つ動く影もない。さうだ、タージマハルは? あの怪老人はどうしたのか?
「タージマハル! どこにいるんです?」
 呼んでみても返事がない。自分は周圍を見囘した。瓦礫・瓦礫・瓦礫、まさに廢墟だ。その中に、おや、氣のせいだらうか? 何處かで、おおい、といふ聲が聞こへたやうな。いや、空耳などではない。確かにタージマハルの聲がする。おお、あそこだ。あの瓦礫の下に皺くちゃの、その奇態な姿を覗かせてゐる。
「おおい、ゼイムス君、此方だ。」
「タージマハル……良かった。無事だったんですね」
「いや、儂はもうダメぢゃよ。とうとうこれでお終いのやうぢゃ」
「そんな、何を氣の弱い事を……さ、手をお貸ししませう」
「いや、いや。無駄なことぢゃ。儂はもう300年も生きた。今更、死を恐れたりはせんよ。ただ、君にこれを渡さねば、死んでも死にきれん」
 さう言って、かれは私の手に小さなカプセルを握らせた。どうやらマイクロフィルムのやうだ。
「ミツウロコ27の設計圖ぢゃ。君はどうか責任を持って、これを“深夜の市場長”に渡して欲しい」
「深夜の市場長? 一體、それは誰ですか?」
「ツキジ・ウオガシティを陰で動かす、眞の實力者ぢゃよ。かれに任せればすべてしっかりとやって呉れる。ぢゃが、氣を附けるが良い。死の商人“マグログマ”がこいつを虎視眈々と狙っておるからな。それから、これを持ってゆきなされ」さう言って差し出したのは、古い香爐である。
「反魂香ぢゃ。これを用いて死者を呼び出すことが出來る。道中、何かと君を守って呉れるはずぢゃ……ううむ、どうやら臨終の時がやって來たやうぢゃな……ふぉふぉふぉ。では行くが良い。もうすぐこの研究所は大爆發を起こす……」
 タージマハルはそのまま冷たくなった。何といふ風變りな死であらう。
 さうして、「ガチョォォォォォン」といふ大音響と共に、“K谷の巨人像”もろとも研究所はあっけなく崩れ去ったのである。不思議なことに、殘骸はあっといふ間に風に運ばれて、僅か一刻の間に永劫の時が流れたかのやうに、最早そこには一片の殘骸も、爆發の爪痕も、ささいな痕跡すらとどめはしなかった。


(第10囘)時計臺の秘密

 ツキヂ・ウオガシティのセリ場に竝ぶマグロには、赤いペンキで番號が振られてゐる。セリ落とすための番號であるが、特に最初より20番くらいまで、その日の上物マグロに充てられる。中でも1番のマグロともなれば、産地、肉厚、脂の乘り、色合ひ共に最高級、仲買人垂涎の逸品である。セリ人のかけ聲にだって力がこもるといふものだ。
「アー、ダー、イダーョチテッカ、ヨダログマイマウ、テケレッツノパー! ハイ、ウオトラ〜」
 どうやらセリ落としたのはウオガシティの女親分「おユウ」ことユウコのやうだ。腹掛けに印半纏、捻り鉢巻で肩で風切る気風の良さのかの女であるが、しかし、今日は何處か表情が固い。とても1番マグロを引いた仲買人とは思へない暗さだ。
 かの女は、若い衆に店までマグロを運ばせると、自らが日本刀のやうな下ろし包丁の長柄の一振りをもって、デップリと太った極上マグロにひと太刀を入れるために身構へた。この時、かの女の表情は恐怖に蒼ざめ、口唇がわなわなと震へてゐる。そして私も――高まる心臟の鼓動を押さへきれずに、思はず身をちぢこめるのだった。
 ザクリッ、と本當なら一氣に深く切り込むはずが、何故かかの女は恐る恐る淺い刃を入れた。と同時に――急に視界が開けた私は、突然の明るさに眼をしばたかせ乍ら、そこに不安氣なユウコの顏を認めた。その瞬間、かの女の口もとが大きく動き、歡呼の聲が飛び出すのだった。
「主水ーッ!」
「ここへたどり着くには、マグロに這入って來るのが一番安全だらうと思ってね。それにしても身體中が生臭くて仕樣がない」
「こんなに太ったマグロったらないと思ったハ。それにしても、よく生きて帰って來た、妾はどれほど……」
 ユウコは言葉を詰まらせ、さうして人目も生臭さも構はず、私に抱きついて來るのだった。
「ユウコ、“マグログマ”のことを知ってゐるか?」
「え、あの冷酷な死の商人のこと? 本當にいけ好かなひ連中ったらありゃしない」
「ウオガシティの人々は皆、マグログマによって氣を狂はされてしまったといふのは本當か?」
「河岸の人間は、ずっと昔から頭がおかしいハ」さう謂って笑った。この女も少し頭が變なのかもしれない。
「ところで“深夜の市場長”に遭ふにはどうすれば良い?」
「何ですって! 深夜の市場長! ああ、主水はあのお方に遭はうといふのネ。あの方こそ、この魚河岸の、私たちの守り神。ここで働くすべての者が尊敬する人物。しかし、未だ誰もその姿を見た者がないのヨ」
「そりゃあ、どういふことだい」
ユウコは暫く默りこくってゐたが、急に意を決したやうに話し出した。
「主水、深夜の市場長に遭ふには、深夜の市場長室に這入らなければならないの。しかし、この市場の何處にもそんな部屋はないハ。良くって、深夜0時、時計臺の針がひとつに重なる時、月の雫が三角屋根に小さな扉を映し出すの。そこが深夜の市場長室よ。けれど主水、不用意にあの方にお遭ひしたらアナタ、命はないハ。失禮のないやうに、絶對に粗相のないやうにしなければ不可ない。とても気難しいの。あの方の眉がピクリと吊り上るだけで、トーキョー市の役人の首が簡單にすげ替えられるのよ。これまであの方の姿を拝んで生き長らへた者はいないとまで謂はれてゐるハ」
 深夜の市場長! その恐るべき實力を前に、私は餘程の覺悟をしなければならないやうだ。

 その眞夜中、私はウオガシティの時計臺の下に立ってゐた。下弦のハーフムーンが中天に昇り、あやかしめいたクリーム色を地上に投げかけてゐる。不可思議な逆光線の下で不安氣に搖れてゐるのは自分の影法師だ。影よ、何故そんなに怖れる。私の意思とは無關係に影は奇妙な踊りを始めた。何だらう? 私がいぶかし氣に見詰めるうちにも、影は滅茶苦茶な動きを繰り返し乍ら手を伸ばして一定の方向を指した。そこには、おお! 今しも天より月光が、粉末のやうにサラサラと、一条の光を時計臺の三角屋根へと降り注いでゐるではないか! 丁度、時計の針は、その長短が重なり深夜0時を示してゐる。いつのまにか私の影は屋根にまで昇り、その壁面に、何處で手にしたのか白いチョークで扉の繪を描きはじめた。子どもの落書きのやうなデッサンの狂った下手な繪。そのいびつな扉が、月の光に照らし出されて、今、何者かの力によってか、ギ・ギ・ギ・ギ……と開き始めたではないか! やがて開け放たれた扉から、するするとこれまた手書きの階段が私の足元まで降りて來た。
 すべては月光の魔術に誑かされるままに、私は吸い寄せられるやうに一段づつ昇り始めたのである。


(第11囘)深夜の市場長

 手書きの階段を昇り詰め、私は時計臺の秘密部屋の扉の前に立った。室内には数々の齒車や機械裝置が所せましと竝び、天井から幾つも螺旋巻きがぶる下ってゐる。そして、気づくと部屋の奧に黒い人物が横を向いて立ってゐた。かれが深夜の市場長だらうか。私はユウコの謂った言葉を思ひ出して、慌てて身構へ、胸ポケットから予て用意の扇子を取り出すと、一氣に捲くし立てた。
「ペチンッ! いや、どうも。これはこれは、深さん。いよっ、長さん。ご機嫌麗しゅうございますな。ペチンッ! いやもう貴方樣ほど容姿の良い旦那さんはいらっしゃいませんヨ! いよ、色男! この女たらし! 色魔! 後家殺し! 千両役者! ナリタヤーッ!!」

 クックックッ……噂どおり、よく喋ることだね。ゼイムス主水君

 その時、月光が扉の陰からヌンメリと差込んで來て、聲の主、黒い人物の横顏を煌々と照らし出した。
 面長の、といって痩せぎすではない、全體に端正な顏立ち。一見すると書生かと思ふ位に若々しい表情の中にどこか凛とした風情を感じさせる好人物である。その穩當な第一印象にほっとした私であったが、かれがくるりと向きを變へて顏の反對側を見せた時には、思はず、あっと小さく叫んで了った。
 その反對側には顏がなかった。顏のちゃうど半分は暗Kの闇を覗かせてゐるのだ。暗黒と謂っても、そこには小さな光が無數に點在してゐる。それは星だった。數へ切れない恆星が、銀河が、渦卷星雲が、顏の中に無限の廣がりを見せてゐる。何とかれは、この大宇宙の地圖を半顏に描き出してゐるのだ!
「フフ。そんなに愕いた顏で見ないでくれ給へ、ゼイムス君。僕は右の眼でこの世界を見、そして左の眼で宇宙の運行を追ってゐるのだよ。まあ、ちっぽけな世界でのみ活動してゐる君らには余り關係ないことだらうけどね。フン、それよりもだ。先ず、君の襟元に附いてゐるのは、それは發信機ではないのかね」
 あっ、一體何時附けられたのだらう。気づかないうちに燐寸大の機器が襟元に附けられてゐた。
「袖口にも附いてゐるぞ。ほら背中にも、足元にも、髮の毛の中にも。一體、君は幾つ發信機を取り附けられたら氣が濟むんだい」
 何と謂ふ事だらう。私は身體中から十數個もの發信機を振るい落とした。柳の枝から落ちる毛蟲のやうに、ボトボトと小さな機械が、正確には18個も落ちた。愕いたことに萬歩計まで取り附けられてゐた。
「5897歩……と。君、あまり歩いてゐないねえ。まあ、良いや。時に君、僕に何か用があるのではないかね」
 ああ、そうだ。私はタージマハルから手渡されたミツウロコ27の設計圖のマイクロフィルムをポケットから取り出した。
「フフン、あの爺さんがね。そいつは怪しいもんだな。どれどれ、と。フン、思ったとおりだ。ゼイムス君、遠い處をご苦勞だったね。こいつは全くの贋物だよ」
 ニ・セ・モ・ノ!
 私が命からがら運んで來たこのマイクロフィルムが贋物だったとは……余りのショックに足元から力が失せてゐくのを感じた。
「まあ、そんなにがっかりすることもない。何とかならないでもないからね。敵はどうやら思ってもみない手がかりを殘していってくれたやうだ」
 さう謂ふと、深夜の市場長は周囲に散らばった機器を拾い集めて改めてゐたが、ふいにかれが螺旋卷きを手繰ると壁面に巨大なコンピュータが現れた。別の螺旋卷きを手繰ると今度は口徑100センチはあらうかと謂ふ反射望遠鏡が頭上から下がって來た。ぎょっとする私の眼前で、かれは黙々と計算を始める。
「あー、ゼイムス君。そこの寒暖計で外の氣温と濕度を計ってくれ給へ。フム、摂氏14度、濕度48パアセントと。君の萬歩計の數値5897。それから一寸、歩幅を測るから、そこを歩いてみて呉れ。えーと、さうだな45センチとしやう。で、月齡21日の月がふたご座にあるとして、さて、フォーマルハウトの南中時刻の座標から讀み取れる數値が、と。時に君、今朝何を食べた。鯵の塩焼きと目玉焼き。外國人なのに日本食! それじゃあ變數をπで代入して。まあ一寸大雑把ではあるが、と。うむ、わかったぞ!」
 呆気に取られる私を尻目に、深夜の市場長は興奮した聲で叫んだ。
「分かった、分かった! 本當のマイクロフィルムの在りかが分かったぞ!」


(第12囘)幽鬼の塔

「分ったぞ! すっかり分った! いやもう本當に分ってしまった! こりゃ分った!」
 深夜の市場長はすっかり興奮して、分った分ったと叫び乍ら部屋の中をぐるぐると、傍らに居るこちらが眼を囘すくらいの勢いで歩き囘ってゐる。100囘も囘ったらうか、ふいにこちらを向き直って謂った。
「君、何が分ったのか僕に尋ねんのかね」
「え、ああ、さうですね。マイクロフィルムが何處にあるのか分ったのですか、深夜の市場長」 
すると、かれは待ってましたとばかりに身を乘り出し、宇宙の顏を此方にぐっと寄せてドスの利いた聲を出した。
「何處にあるのか、と。フン、良いだらう、教へてあげやう。さう、その前に僕がどのやうにして在り處を割り出したのか説明しやうぢゃないか」顏中の暗K星雲が鈍い色で耀き出してゐる。
「この世界に存在するすべては大宇宙の法則に從って運動をしてゐる。政治や經濟や國際紛爭といったものから、けふ君の食べた朝食のメニュウまで、既に數十憶年前、この宇宙誕生時に決められてゐるのだよ。人の意志などといふものは存在しない。これすべてこの宇宙の意志だ。即ち宇宙神の存在だね。まあ難しい話はやめるとして、つまり、この世界の過去も未來も大宇宙圖の中に描かれてゐるのだ。天體の運行を計測することで世界中の出來事のすべてを把握するこが出來るといふ寸法だ。
 さて、君の持ってきたマイクロフィルムが何物かによって僞物とすり替へられたと假定しやう。ここに我々の最大立證物件とも謂ふべき萬歩計の示す5897によって導き出される2.653粁といふ數値に合致する座標を宇宙座標に對應させてみればその在り處は容易に知れるといふものだが、惑星の影響も考慮しなければ不可ないので、ケプラーの第3法則から
 重力係數u=G(Msun/planet/moon/orAsteroid+Mwalkingman)2π√2.653
の式で求める事が出来る。ここでGは6.672×10マイナス20乘kmsecであるから、合成ベクトル成分2VradVtanCosαを代入して……」
「深夜の市場長! どうも難しくて、さっぱり分らないのですが」
「フン、君のライトな腦味噌では理解しづらいかね。仕方ないや、ぢゃあ、結論だけお教えしやう。この市場の中央に立ってゐる五重塔。通称市場塔といふが、僕の計算では、どうやらあそこにマイクロフィルムが隱されてゐると見たね。あそこが敵の、さう、死の商人“マグログマ”の本拠地に違いない」
 五重塔! あの胡散臭い建造物が敵の本拠地だったのか。なるほど、來日して以来あの塔にはずっと異樣な印象を受けてゐた。歴史的建造物に巣食う惡の集團、想像しただけでも不氣味な圖が浮かぶ。邪惡な輩の集う伏魔殿、まさに幽鬼の塔だ。
「さて、と。君がいずれあそこに潜入するといふことになれば、何うしてもこれが必要にならう」
 深夜の市場長はさう謂ひながら、螺旋卷きをぐっと手繰り寄せるや、天井からぶらりぶらりと下がって來たのは、赤黒く錆びた、人の腕ほどもある大きな鍵である。
「これは“瀬戸の火車の鍵”と謂って古代の神祕を開くものだとされてゐる」
「瀬戸の火車の鍵! 何ですかそれは? 」
「古天文學に使った觀測裝置の鍵だと謂ふがね、フン、どうせ眉唾だらう。後世の人間が都合の良いやうにこじつけた説に違いない。しかし、これがBC300年代のメソポタミア文明の遺跡から出土したといふのは間違いのない事實だ。しかも、これと同じものが市場塔の礎石に埋め込まれてゐるといふのだから面白い」
「といふと、それはどういふことになるのですか?」
「さあね。ただ、想像できることは、この鍵を用いれば、あの市場塔のまがまがしい秘密めいたものを解くことも出來るのぢゃないか、といふことさ」
 この無闇に大きい鍵が解き放つ秘密とは一體何か? 深夜の市場長はそれ以上語って呉れやうとはしなかった。
「おや、東の地平線から天狼星が昇って來たな。さあ君、もうこれ以上話をしていても無駄だ。僕には大切な觀測がある。すぐに帰りたまへ」
 さう謂ふなり、ぷいと背を向けたまま深夜の市場長は作業に没入し、もうこちらを見やうともしなかった。まったく取りつく島もない調子だ。私は仕方なく瀬戸の火車の鍵を抱えて時計室を出て、來た時と同じ落書の階段を降りた。表にはいまだ煌々とムーンシャインがクリイム色を地上に投げかけてゐる。私はふいに目が眩んだやうになって、いびつな階段を踏み外してしまい、身體がまるで逆さまに、頭のてっぺんで階段をトントントンと降りると、そのまま地面に突っ伏してしまった。首の骨が折れなかったのは、むしろ奇跡だったと謂へよう。時計臺から深夜の市場長がひょいと首を出して、
 「昨日いらっしゃってください!」
と意地惡さうな聲で謂ったのはかすかに覚へてゐるが、その後の記憶は定かでない。そのまま私は意識を失ひ、數時間後に警備員に助け起こされた時には、月光も時計臺も消へ失せ、ただ、タアミナルにアイドル中のトラックのテヰルの赤い目が私の頭の中でグルグルと囘ってゐるばかりだった。 


(第13囘)馬鹿は三たび囘る

 市場塔は旧いフィルムのやうにセピア色をして、ウオガシティの喧騷を默って見下ろしてゐる。その姿は、長い年月に洗はれ朽ちてしまったものが持つ、まがまがしくも神々しい偉容を感じさせた。
 それにしても、何故こんなものがここに建ってゐるのだらう。私は不思議に思い乍ら、塔の周圍をぐるりと周ってみたが、おかしなことに何處にも入口らしきものは見當らなかった。一體どうやって這入るのだらう。私は暫く邊りを調査してみたが、いっこう埒が開かないので、いっそ誰かに訊いてみやうと思った。丁度、傍らを小車に丸々と太ったホンマグロを引いてゐる若い衆が通りかかったので、聲をかけた。
「おい、君。一寸訊くが、この塔は一體何處から這入るのかね。何處かに扉が隱されてゐるのだらうか。さあ、君教へ給へ。何うして默ってゐる。ええ、聞こへないのかね」
 しかし、若い衆は全く意に介さないかのやうに、スタスタと行ってしまう。私は業を煮やしてかれの肩をぐいと掴むと「さあ教へて呉れ」とばかりに引っ張った。すると、くるりと振り向いたその男は、まるで目鼻までが剛毛に覆はれた毛むくぢゃらのゴリラのやうな顏であった。ああその顏の持ち主こそ、恐ろしき馬鹿野郎、バラキ中山ではないか。
 「バラーキ! バラーキ!!」
 タージマハルの研究所の大爆發と共に吹っ飛んだはずの奴が何故ここに現れるのだ。何しろ私はこの馬鹿には散々な目に遭ってゐる。ここは逃げるにしくはない。私は韋駄天で驅け出した。バラキ中山はコサックダンスのやうに足を前後左右に振りながら愉しげに追いかけてくる。私は、逃げた逃げた逃げた逃げた。何處を何う走ったのか分らない。ようやく追手を撒いた私は猛然と咽喉の乾きを覚えた。すると目の前に市場の賣店、通称“マンジュウ屋”が店を開いてゐる。ともかくビールだ、ビールを呉れ。ハアハア……おい婆さん聞いてるのかい? こっちは咽喉が乾いてるんだ。早くビールを……私は息を詰まらせた。五月蝿さうに振り返った婆さんのその顏はとたんにゴリラのやうになった……
 「バラーキ! バババ・バラーキ!!」
 た、助けてくれー。私は再び逃げた。しかし足がもつれてなかなか前へ進めない。さうだ、賣場の喧騷に紛れてしまへば隱れられるだらう。私は歳末の買出しで混み合う賣場の人波に這入り込んだ。
「おい、押すんぢゃねへよ!」
「この野郎! 無茶するねい!」
 私が周圍に文句を謂はれ乍らも、ごった返す買出人たちに紛れて、漸く人心地ついた。もう大丈夫だらう。このまま裏から出て逐電してしまおう。どうやら良い首尾だ、と私は調子良く人波を泳ぐやうにスイスイ進んでゐたが、ふいにハッと後ろを振り返った。今すれ違った男はもしや……さう、同じやうに振り向いたその顏はまさしくゴリラである。ぎょっとして前を向くと、正面の男もやはりゴリラの顏をしている。あちらの男もゴリラ顏だ。店の者も買出客も皆、ゴリラ・ゴリラ・ゴリラ……賣場のすべての人間が突如ゴリラ顏に變って了った。
 うわあああああああ。
 あまりの恐ろしさに私は周圍を思い切り突き飛ばしながら無茶苦茶に走った。さうして、どうにか賣場を拔けるとトーキョー灣沿の岸壁へと出た。バラキ中山は今度は物凄い形相で迫ってくる。
 「さうだ、反魂香!」
 進退極まった私はすがるやうな氣持ちでタージマハルから貰った反魂香の香爐をかざし、
 「現れ出でよ! ストロング・ファイティング・マン!」
と叫ぶと、何と! 真白い煙と共に、御大ジャイアント馬場と全日のホープ、ジャンボ鶴田が出現した。
 アポーッ!! 馬場の16文がバラキ中山の眉間に炸裂する。鶴田はすかさずスープレックスに持ちこむ! ああ、しかし! もはやかれらに往年の力は殘っていないのか! 簡單に吹っ飛ばされて煙と消へた。
 「現れよ! ハード・パンチャー!」
今度はトーキョー灣から一人の男が立ち上がると、ふらふらと此方へやって來た。
 「たこでぇ〜す!」
 海からやって來たたこ八郎は、矢のやうにパンチの雨を降らせる。しかし、バラキ中山には全く通じないのか、かれもまた張り飛ばされて、トーキョー灣にもくずと消へた。
 「出て來い! スピード・キング!」
 突如、マクラーレンでかっ飛んで來たのは“音速の貴公子”アイルトン・セナである。かれは300キロの速度でバラキ中山に突進していく。しかし何を思ったのかコースはそれ、岸壁に激突して、勝手に消へ去った。
 萬策盡きた私は、今やバラキ中山の魔手に罹るばかりだ。もう萬事休すである。
 しかし、その時! 私の目の前に1台のターレが停まった。
 「主水、早く乘って!」
 特殊ターレ仕樣・モンドカーを運轉して來たユウコであった。


(第14囘)地獄へ道づれ

 「主水、しっかりつかまってゐるのよ」
 ユウコはさう謂ふと、素早くギアを入れ、ラムジェットエンヂンに着火した。
 その途端、思はず顏の歪むほどのGと共に、ターレ型モンド・カーは凄まじい勢いで發進し、阿鼻叫喚で逃げまどふ買出人を、ゲイシャやサムライやリキシの間を、流星のやうに突き拔けた。
 ずどどどどどどどど……
 「うををををを!」
 私は振り飛ばされないやうに荷臺にしがみつくのが精一杯である。風景が矢のやうに過ぎてゐく。物凄い速力によって私の身體は水平になり、吹き流しのやうに宙に翻った。
「バラーキ! バラーキ!!」
 バラキ中山は必死の形相で走って追いかけて來る。彼奴は通行人も小車もトラックまでもお構ひなしに、ハリウッド映畫のSFXのやうに前後左右に吹っ飛ばし乍ら、一直線にこちらに突進して來る。
 「これでもお見舞ひするハ」
 モンド・カーからボタボタと馬糞のやうなボムが路上に落ちると、バラキ中山の足元で炸裂し、付近を横斷中のダイミャウ行列もろとも業火に包んだ。
 「これで片がついたわね」
 燃えさかる炎を遠巻きし乍らユウコが謂った。が、火焔地獄の中から、まるでモーゼの十戒のやうに、火焔の海を真っ二つに割って、ダイミャウ行列が進んで來るではないか。
 「下にぃー、下にぃ!」
 そのあまりの威光に打たれて、私らは思はず土下座した。
 が、乘物の御簾が開き、姿を現したのは、ダイミャウではなく、とんだ馬鹿野郎だった。
 「バラーキ! バババラーキ!」
 再び不毛な鬼ゴッコが始まった。
 「もう、しつこいったらありゃしない!」
 ユウコは無茶無茶にウェポン・スヰッチを押しまくった。數發の熱反応追尾型小型核ミサイルが馬鹿をめがけて發射される。
 ズドドドドドーッ!!
 目の眩む閃光と共に小さなキノコ雲があちこちから立ち昇った。うち3發は目標をそれ、東京市の当局ビルをあっけなく粉碎した。
 しかし、ああ、何と謂ふことだらう。大爆發の轟音の中からも、あの聞き覺えのある聲が無氣味に響いて來る。
 「バラーキ! バラバラ・バラーキ!」
 何と彼奴は首も胴體も手足もばらばらになり乍らも、不恰好な走り方で、しかし、物凄いスピードで突進してくると、遂にかれの腕がガシリとばかりにモンド・カーを捕まへた。かれの足だけが荷臺に足をかけ、その首は私の鼻先で恐ろしげに笑った。うわぁぁぁぁぁ!
 「仕方ないハ。最後の手段よ!」
 ユウコは急旋囘でモンド・カーを反轉させると、再び市場内を突進した。目標の先には發泡ゴミ処理場の巨大な圧縮機械が恐ろしい口を開けてゐる。モンド・カーはうなりを上げ乍ら突き進んだ。
 「主水! さあ飛び降りて!」
 私はなかば投げ出されるやうに路上に轉がり落ちた。目から火花が出るやうな思いがしたが、命に別状がないのは奇跡と謂へやう。
 運轉者を失ったモンド・カーはバラバラのバラキ中山を道づれに巨大圧縮機に吸い込まれ、ベリバリボリッと謂ふイヤな音と共に、ものの10秒で僅か20センチの厚みにプレスされて機械の排出口から轉がり出た。
 何と謂ふことだらう。さうだ、ユウコは!?
 周圍を見囘すと數メートル先にかの女は倒れている。
 「ユウコ! しっかり、さあこの手につかまって……」
 私は驅け寄り、かの女を抱き上げた。その時、私の胸に固いものが突き當たった。
 「主水、さあ、手を上げてちょうだい」
 パチリと目を開けたユウコはニヤリと笑ひ、その手にはコルトの銃口が心臟に正確に狙ひを附けてゐるのだった。


(第15囘)妾の愛したスパイ

 「さあ、早く“瀬戸の火車の鍵”を渡すが良いハ。命が惜しくばね!」
 ユウコは女賊のやうに凄みを帶びてさう謂ふと、コルトの銃口をグイグイと私の胸に壓し付ける。私はホオルド・アップの姿勢のまま、トコトコと身體を囘すと、背負った巨大な鍵をユウコに向けて差し出した。
 「主水、貴方のおかげで仕事がはかどったといふものよ。ああ、これが“瀬戸の火車の鍵”なのね。これで妾の望みが叶ふんだハ」
 「ユウコ……君は私らの味方ではなかったのか? なぜその鍵を狙ふのだ」
 「フフフ、この手のスパイものでは美女は裏切るといふのはお決まりぢゃないの」
ユウコは銃口を私に向けたまま、白々しく謂ってのけた。
 「さうね、主水。冥途の土産に聽かしてあげるハ。確かに妾は諜報員としてこの魚河岸にやって來た。しかし、この仕事は何しろ命がけ。常に死と隣合せの危險な作業よ。それでいて妾たちが受け取る報酬ときたら、全く雀の涙程度の薄っぺらなものぢゃないの。主水、諜報局の連中がいつも何を考えてゐるか知ってゐて? あいつらは次のロールスロイスのボディ・カラーは何色かとか、そんなことで頭が一杯なのよ。奴らはしこたま儲けてやがんのさ。ああ、こんな仕事おえないハ!
 だから妾は寢返ったのよ。マグログマの首領にさ。さう、あいつだって全くの食えない輩さ。でも、この一帶ぢゃあ、強大な力を持ってやがる。あいつに逆らったら、ここぢゃ生きてゐけない。けど謂ふ事さへ聞いておきゃあ、安泰ってものよ。妾はあいつの謂ふ通り、諜報活動を續けるふりをして、主水、貴方をおびき出し、まんまと鍵を奪い盜ったといふ譯」
 「すると私は、さぞ滑稽な活劇を演じたのだらうね」
 「ああ、主水。貴方は流石だったハ。豫想以上の働きをして呉れた。貴方のお陰で、あの偏屈な深夜の市場長から鍵をせしめることが出來たものね。ただ誤算は……」
 「誤算は……?」
 「フン! そんなことはもう良いハ。主水、氣の毒だけど觀念して頂戴。なに、何の苦痛もなく一撃で葬ってあげるハ」
 「一寸待ってくれ。いや、命乞いしやうといふぢゃない。私も諜報員だ。任務失敗については死も辭さない積りだ。それにユウコ、君の手に掛かるなら本望といふものさ。ただ、まあ後生だから、最期に一服くらいさせて呉れないかね。私の胸ポケットの煙草をとって呉れ給へ」
 ユウコは私にキャメルを一本くわへさせると火を點けて呉れた。私は両腕を上げたまま深く紫煙を吸い込んだ。それは――かやうなピンチに際して、實に美味い味がした。さう、それは勝利の味であった。私が煙を吐き出すと共に、紙煙草に仕掛けられた非ピリン系瞬間神經ガスがユウコを包んだ。かの女がコルトを取り落とすのと私のワルサーPPKがかの女のみぞおちに突きつけられるのと同時であった。
 「ユウコ、形勢逆転といふことだね。靜かに! 手荒な眞似はしたくない」
 「主水、仕樣のない人ね。無駄よ。もう逃げられはしないハ。やつらはもう……ウグッ!」
 突然、ユウコは力をなくしてガクリと馘首を垂れた。
 「む、手裏剣! しまった!」
 周圍を見囘すと、眞Kい物がすっ飛んでゐく。さてはニンジャ! 私はワルサーPPKをたて續けにぶっぱなした! ズドーン! ズドーン!
 しかし、ニンジャはサッと手を上げると、どこからか降ってきた大量の木の葉によって身を隱して了った。フン、その手に乘るかい! 私は木の葉の山をかき集め、素早く火を點けた。この季節には焚き火は何より有難い。焚き火をはじめて間もなく、ギャアアアといふ斷末魔が聞こへた。さて、そろそろ燒けたかのお。ここぞと火箸で突き刺すとほくほくの紅あづまが食べ頃に燒けてゐる。ほひほひほひ……頬張ると燒き芋独特の甘味が口一杯に廣がる、ああ、この幸せ感。それは一寸だけ焦げたニンジャの味がした。

 「ユウコ、しっかりしろ!」
 「……主水、妾はもう駄目……貴方、市場塔に行くのは、どうか止して頂戴。あそこは恐ろしい場所。とても敵ふ相手ぢゃないハ。まるで命を捨てに行くやうなものよ。でも、ああ……貴方、やはり行くのね。貴方はさういふ男よ。良いハ、止めはしないハ。あの塔の最上階にマグログマの首領がいる。けれどもそこにたどりつくまでには、各階に這入ってゐる壽司屋を制覇しなければ上へは行けないの。しかも上へ行くほど、美味い壽司が出てくるハ。絶體に階下でお腹を一杯にしては駄目。上に行く前に食べ過ぎで死んでしまふハ。そして、もし、運良く首領に會う事が出來たなら、良くて主水、影を撃つのよ。首領の姿は幻、本當の正體は影よ……市場塔は朝5時開店よ。貴方の幸運を祈るハ……ううっ、主水、聞こへる? もう何も見えないハ。主水……妾の誤算は貴方よ。貴方を利用し乍らも妾は貴方の魅力に抗しきれなかった。ああ、主水、貴方……妾の愛したスパイ……グフッ」
 「ユウコ!! ああ……」
 その時、稀代の女賊ユウコは私の腕の中でこと切れてゐた。


(第16囘)FLOOR1:超高速囘轉壽司

 午前5時、極東の魔窟、神祕と陰謀に滿ちた魔都ウオガシティは、深く立ち込めた靄の中に、おどろおどろしく蠢いてゐた。その靄の切れ間から、さながら伏魔殿のやうな樣相を浮かべて市場塔が顏を覗かせる。古代の五重塔建築の各層には手だれのスシヤが店を開いてゐるといふ。そして、すべての階のスシヤを倒さねば、最上階の首領に會へないのだ。私は今日の爲に2日も食事を拔いて來た。死の商人、マグログマの首領を倒すために、この胃袋が破裂するのも辭さなひつもりだ。
 なるほど、前囘、固く閉ざされてゐた市場塔だが、今日は入口の格子戸には明々と灯が燈り、“壽司処”なぞといふ暖簾がヒラヒラと風になびいてゐる。私は懷手にワルサーPPKをぐっと握りしめると、ギュルギュルと鳴るお腹を押さへ乍ら、魔窟への侵入を開始した。
 ガラガラガラ……「らっしゃい!」
 お、ここは! 眼前に現れた光景に私はハッと息を詰まらせた。小皿に乘って壽司ネタがクルリクルリと氣持ち良ささうに囘ってゐる。
「何だ、ウオガシティにも囘轉壽司があるのか!」
 すると、カウンターの向かふに突然、つむじ風が起ったかと思ふうち、それは小型の龍卷となり、こちらに近づいて來る。危い飮み込まれる、と思った瞬間、龍卷の渦が緩慢になり、中からクルクルと海坊主のやうな男が現れた。何とこの男の囘轉が龍卷を卷き起こしてゐたのだ。
「グルグルグル! お待たせ致しましたワ。只今開店で御座居ます。階上へいらっしゃるには、まずここでお腹一杯食べて頂かねばなりませんのよ。ワタクシ、この階を司ります、スシヤ四人衆のひとり、“鳴門卷ヱ門”と申します。以後お見知りおきを、グルグルグルーッ!」
 私は席に着き、湯飮みに茶のティーバッグを入れると、手前の湯のそそぎ口に押し付けて茶を淹れた。
「では始めませう、グルグルグル! 先ずルールを説明させて頂きますわ。ワタシ、この臺をグルグル囘しますの。アナタ、臺の上の壽司を食べる。實にシンプルルール。ただ、この臺はおよそ300`の超高速囘轉を致しますので、素直に食べるのは少々難しゅう御座居ますのネ。グルグル。そしてネタですが、紫の皿に乘ったアワビ、ウニ、トロマグロ、これが300点で御座居ますワ。青い皿に乘った小柱、穴子、サヨリ、これが200点ですの。赤い皿のコハダ、エビ、タコ、ツナマヨ、これ100点ネ。3000点食べると上がりで上階へ行けますワ。ただし、表面が乾いたものは本當の壽司ではなくレプリカで、實は小型爆彈が仕掛けられておりますのヨ。これ食べると即死、ゲームオーバーなのでご注意を。さあ! 囘しますわよ、グールグルグルーッ!!」
 オカマっぽい鳴門卷ヱ門は自身がグルグル囘り出すと、それに伴って囘轉臺もグルグルと囘り乍ら速度を増し、やがて唸りを上げ乍ら目にも止まらぬ囘轉に變った。カウンターの向かふでは龍卷が立ってゐる。これでは皿の色どころか壽司ネタそのものを掴まへることすらも困難さうだ。しかし今さら後へも引けない。私は手を伸ばすとさっと皿を取った。
「しまった、このアナゴは乾きもの!!」
 私は慌てて皿ごと放り投げた。チュドーン!! 壽司は入口の格子戸に當って、ウヰンドウを粉々に打ち碎いた。
「お客さん! 取った皿はちゃんと食べて! それ減點ですワ、グルグルグルーッ!」
 鳴門卷ヱ門に怒られたので、今度は慎重に選ばう。さうだ、氣を落ち着かせれば見誤ることなどない筈だ……これだ!
「うわっ! ポロポロのイクラだー!!」
 焦った私は壁に向かって皿ごと叩きつけた。ドッカーン!! 壽司はお品書もろとも壁を打ち拔いた。
「ちょーっと、好い加減にして下さいよお。ったくやってられないワ。お客さん、今度皿投げたら失格よ! グルグルグルーッ!」
 再度、鳴門卷ヱ門に怒られたので、今度こそ失敗は出來ない。私は超高速で囘轉する臺を凝視した。しかし、どうしても皿の色など見分けることが出來ない。さうだ! 音だ! 音で判斷すれば良いのだ。私は目を閉じると、聽覺に神經を集中させた。すると、如何だらう。ブウウウンといふ機械音の向かふに、小さく、しかし、はっきりと壽司皿の音が聞へて來るではないか。聞へる、聞へるぞ。1個1個の壽司ネタの息吹が聞へて來る。マグロがタコがシャコが、輕快なワルツに乘ってクルリクルリ愉しげに踊ってゐるのが目に見へるやうだ。さうして、見るも脂の乘り切った大トロが威風堂々と自分の前にやって來るのを感じて、
「これだー!!」
とばかりに皿を取った。そしてカッと目を開けて見ると、
「げっ、乾きアカガイ! 反り上がってパーリパリッ!」
 しかし、今度は放り投げる譯にはいかない。途方に暮れた私は恐る恐る手をのばすと、カウンターの向かふで龍卷化してゐる鳴門卷ヱ門のその渦の中心に、そっと差し入れた。すると、ゴオオオーンといふ爆發音がした途端、渦巻きと囘轉臺はさらに高速に囘り出し、邊りに焦げ臭い匂いが漂ふ。
「アナタ何て事するのヨ! もうアタクシ停まらないわよーっ、グルグル・グルルルルー!」
 鳴門卷ヱ門の斷末魔の叫びと共に、その囘轉は最早、人間の可視能力を遥かに超へるほどのスピードとなり、やがて、物凄い閃光を放つと、この世界から消滅して了った。
「恐ろしい敵だった……」
 私は決意を新たに、上の階へと續く階段をゆっくりと昇り始めた。


(第17囘)FLOOR2:早壽司将棋名人戰

 二階は疊敷きの和室になってゐた。壁際には山水畫が描かれた襖があり、風雅な雰圍氣を演出してゐる。そして、室の中央には盤臺が置かれ、和服姿の顎髭を蓄へた男が、片手に扇子を持って考え深げに坐してゐる。かれは私を認めると、やおら相好をくずして話しかけて來た。
「お待ち申しておりましたがな。わてがスシヤ四人衆の一人、“浪花三吉”でんねん。ほんま若輩もんやよって、何卆、お手やはらかにお願いしますわ。さ、そちらへお掛けなはれ」
と、盤臺の對座の座布團へ私をうながした。どうやら、これはショーギと謂ふヤポン國のボードゲームらしい。私の國のチェスのやうなものだらう。しかし、奇妙なことに、盤面に竝んでゐるのは、ショーギの駒ではなく、すべて握り壽司だった。手許には醤油を入れた小皿まで用意されてゐる。

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 |のり卷|のり卷|のり卷|のり卷|のり卷|のり卷|のり卷|のり卷|のり卷|七
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 |    |イクラ|     |    |    |    |     |海 胆|    |八
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 |烏 賊|蝦 蛄| 鯛 |赤  身| 玉 |ト  ロ|平  目|穴 子|海 老|九
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 と、そこへ横合いから五画形のショーギの駒のやうな顏をした人物がぬっと這入って來て嚴かに謂った。
「私、立會いを務めまする穴熊棋士郎と申します。それではこれより早壽司将棋名人戰を行ひたいと思ひます。先手はゼイムス主水諜報員、後手、浪花三吉名人は海胆、烏賊落ちでお願ひします。では始め!」
 始めと謂はれたって、一體どのやうに動かして良ひか、壽司駒の動かし方も知らないが、ええい、まあ良いや、適當にやってやれ。ひょいひょい、と。
「■ 先手7八 ウニ」穴熊棋士郎がやはり嚴かに讀み上げた。
 浪花三吉は、ほほう、振りウニでっか、などと呟き乍ら、べちょっとシャリが潰れるほど力強く、握り壽司を盤面に打ち込んで來る。「□ 後手8四 のり卷」
 何だかよく判らないまま、私も勢いにまかせて打ち込んでゐった。
「■ 先手3八 ヒラメ」「□ 後手7二 アナゴ」
「■ 先手4八 トロ」「□ 後手5四 のり卷」
 部屋中に緊迫した空氣が張りつめる。シーンとした靜寂に包まれたこの部屋では、疊に針一本落ちただけでも大音響のやうに感じるだらう。最早ほんの少しの息遣ひの亂れで勝敗すら決定しさうである。

「先手、持時間殘り10秒、9・8・7・6……」
 慌てた私は、思わずアナゴを振り込んで了った。すかさず浪花三吉はヒラメでこれを取る。しまった、アナゴの早上がりだ! 苦しまぎれに私はイクラで相手のり卷きを取って卷き返しをはかる。しかし、勢いに乘じた浪花三吉は次々に打ち込んで來る。
「■ 後手8七 のり卷・成る」
 げっ、のり卷がこちらの陣地に入った途端、ひっくり返って鉄火卷に變ったぞ。一體どういふ仕掛になってゐるんだ!?

 かうなっては、もう仕方がない。こちらには戰法も何もあったものぢゃない。いっそ、運を天の任せてしまおう。私は、手近の壽司駒を何氣なしに盤面に張り込んだ。
「□ 先手6二 ヒラメ」
 その途端、浪花三吉の表情が變った。それまで淡々と盤面を眺めてゐたかれの眼が、今はかっと見開かれ、充血ぎみの眼球は、目前のヒラメを凝視してゐる。それから、數分間の重々しい時間が流れた。私は閑を持て餘して、敵から取った壽司駒を手許のしたじにちょこちょことつけては口に運んだ。
「参りましたぁ!」
 突然、浪花三吉は居住ひを正すと、深々と頭を垂れた。
「おみそれし申したがな。兄さんの振りウニ美濃圍ひ、實に見事やった。いや、これ以上勝負を續けとっても同じこと、殘り三十六手で、わての詰ですわ……」

 何だか判らないが、どうやら私の勝ちらしい。私は相手の玉を口に入れると、部屋を出て上階に向かった。


(第18囘)FLOOR3:恐怖のCUBE壽司

 ドサッ!
 部屋に這入った途端、私は何か物凄い力で振り囘されたやうに床に投げ出された。急に天地が逆轉した爲に、私はしばし呆然として了った。
「こ、ここは……」
 頭を振って周圍を見囘すと、室内は壁と謂はず床と謂はず、全面が真っ赤に塗られた全くの無機質な装いで、家具と謂へるものは何ひとつなく、ただ、部屋の中央に小さな卓臺が設へてあり、臺座の四隅には握り壽司が置かれてゐる。これは一體どんな意味があるのだらう。そして、ふと氣づくと、そこに全身ボロボロの衣服をまとった、まるで遭難者のやうな男が、片手に湯飮み、片手にガリを持って、卓臺を食い入るやうに見詰めてゐる。その男の表情は恐怖に歪み、頬はやせこけ、髯は伸び放題、その目はまさに飛び出さんばかりに見開かれてゐる。
「お前がスシヤか……」
 私が尋ねると男はぼうっとこちらを見て、消え入りさうな聲で謂った。
「わ、わしは寅吉と申す者……壽司屋などでは御座らん」
「ならばお前は何處から來たのだ。一體ここで何をしている?」
「……はあ? わしは何も知らん。わしは江戸の者で御座居ます。文政五年、屋臺の壽司屋の前で天狗にさらはれてここに連れて來られやした……」
「エドだと? まさかお前、100年以上もここでさまよってゐるのぢゃあるまいな?」
「はあ……それより靜かにして下さいまし、氣が散り申す。わしは今、どの壽司を食べるか思案中に御座居ます。早く壽司を食べて江戸に戻らねばなりませぬ……」
 さう謂ふと寅吉は再び卓臺に目を移した。さうして、暫く考へ拔いた挙句、恐る恐る手を伸ばして、かれはそこに置かれた握り壽司の1個、シマアジを撰擇した。息遣ひも荒く、顏面には脂汗を流してゐる。かれは意を決して、シマアジを口に運んだ。途端に部屋の壁の一面がガラガラと開いた。するとそこには、何と江戸の町竝が廣がってゐるではないか。
「ああ……」寅吉は懷しさうに聲を詰まらせ、かれの故郷に向かって走り寄った。しかし、その瞬間、江戸の風景は霞の如く消へ失せ、周囲は真っ白の無機質な部屋へと變わった。「しまった!」寅吉が聲を上げたと同時である。恐るべき何かがかれを一瞬のうちにコマ切れの肉片に細斷して了ったのだ。
 何てこった! これではまるでスプラッタ・ホラアではないか……私は言葉を失って立ちつくした。壁は再びガラガラと音をたてて閉ざされ、血なまぐさい光景は跡形もなく隱された。
 すると眼前に5、60糎程の立方體が現れ、私に向かって格式ばった口調で話しかけて來た。
「ゼイムス主水君、CUBE壽司にようこそ御座った! 私がスシヤ四人衆の一人、ちょいと出ました四角野郎、四角四面之助と申す者で御座る……」
 立方體は宙に浮いたまま、くるくると囘ってゐる。そのすべての面にはそれぞれ目・耳・鼻・口があった。展開すると人の顏になるのだらうか。
「さて、この階のルールをご説明致さう。中央の眞四角の卓臺には四つの對角線を成すやうに握り壽司が四種類置かれてゐる。これらはそれぞれ部屋の壁に對應しており、食べた握り壽司の方角の壁が開き、次の間に行けることになっておる。しかし、正しい方角はただひとつ。若しも間違えれば、先刻の江戸者のやうに八つ裂きとなる運命。さて、どれが正しい方角か。それは正しい壽司の食べ方にある。百花絢爛たる握り壽司をどのやうな順序で食べるか。その醍醐味を存分に味わいつつ、起承轉結に裏打ちされた確かな選擇をせし者こそが、眞の壽司道を賞味出來るのである。たとえば、そなたがスシヤに這入った時に、いきなり大トロなぞを注文したとすれば、そこで失格である。壽司を喰ふ資格なぞ無いのだ。最早打ち首となっても文句は謂へないであらう。しからば、眞の壽司道を歩みし者のみが上の階へとたどり着ける、四者擇一CUBE壽司、これより開店致す。失態は死あるのみ! では始め」
 さう謂ふと四角四面之助は何處ともなく姿を消した。途端に部屋はぐるりと囘轉し、中央には握り壽司を乘せた卓臺がせり上がって來た。
 ぶり・こはだ・かんぴょう卷・いくら ……さあ、選びませい!


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