クルマエビ天国

 「姿のイセエビ、味のクルマエビ」と言われるように、クルマエビはエビの中でも特に美味いといわれておる。特に東京湾の天然物は香り、甘み、色合いどれをとっても一番とされ、極上の寿司ネタに使われてるぞ。我輩のよく行く寿司屋では、ふつうマキとかサイマキと呼ばれるうんと小ぶりなクルマを握るところを大きい正真正銘のクルマエビを握ってくれる。これがこの店の誇る江戸前の天然物。そこでは注文してから茹でてくれる。茹で置きなんかしない。茹であがったのを冷水でさっと冷やすと見事なエビ色になるんだが、絶対に芯まで冷やさず人肌にするのが天然物の甘さを最も引き出すポイント。よくオドリを注文する人がいるけど、まあ食べ物は好きずきだから文句をいうつもりはないが、やはりクルマエビは茹でたのが最高であるな。
 まあ、そういうちゃんとした寿司屋で天然物なんぞに舌鼓を打つのも良いが、実際には養殖物でも十分美味い。天然物との区別なんてなかなかつくものではないしな。いや、むしろ東京湾の天然物なんぞ高く市場に出すために数を揃えねばならず、留め置きされることも多いから、その間に身が細ったりする。それよりも養殖の方がずっといいぞ。
 というのもクルマエビの養殖技術のたまものでな。これには今から70年も以前に一生をクルマエビ養殖の研究に費やした元水産庁の藤永元作さんの功績を忘れてはなるまい。子どもの頃から川エビすくいの名人だったという藤永さんは、学生時代にクルマエビにめぐり合って以来、その生態の解明を一生のテーマとし、水産庁研究調査部長のイスをなげうってまでその養殖の実現に専念したそうだ。そして世界で初の一貫養殖に成功した時、藤永さんを見て誰もがあっと驚いたそうだ。その顔がエビに見えたというんだな。
 養殖技術が普及するまでにはその後20年かかり、その間に藤永さんはお亡くなりなったが、今では激減する天然物を高度な養殖技術が補って、誰でも安心して食べられるクルマエビ天国の世の中になったわけだ。藤永さんに感謝しながらありがたくいただこうではないか。


 サバについて私の知っている、二、三のことわざ

 「サバを読む」
 「秋サバは嫁に食わすな」
 「サバの生き腐れ」
 たぶんこの三つのことわざを知っていれば、サバのすべてを理解したも同然だ。なぜならこれらはサバの持ち味をすべて言いつくしているからだ。
 「サバを読む」とは魚屋がサバの数をごまかすことだな。サバはアジやサンマと並んで漁獲高を誇る回遊魚。秋になると、まるまるとふとったサバが入荷し、それを魚屋が豪快に数えるんだが、あんまり多いからつい間違えてしまう。しかし忙しくて数え直すヒマなんてない。めんどくせえ! と数をはしょる。それが「サバを読む」だ。
 サバは春から夏にかけて産卵をするが、産卵後のものは痩せててうまくない。また、種の保存のために他の大魚に食べられないように体内に一時的に毒物を発生させる。よくサバを食べてジンマシンが出る原因となるのがこれだ。だから夏場まではサバは見向きもされないんだが、これが秋には猛烈にエサを食べて元気を取り戻す。この時期のサバは脂が乗り切ってものすごく美味い。こんな美味いものを嫁になんか食わせられるか、というのが「秋サバは嫁に食わすな」の意味だぞ。
 さて、サバは大量に獲れて美味しい大衆魚の代表だが、注意しなきゃならないのが、鮮度の落ちるのがすごく早いということ。これが「サバの生き腐れ」といわれるもので、まさか生きてるうちに腐ったりはしないが、しかし他の魚に比べて早く痛みやすく、それでいて表面はツヤツヤして見えるから、うっかりすると中毒を起こす。素人でも分かる見分け方は、まん中あたりを持ち上げても魚体がピンと張っていて頭と尾がたれ下がらないようなら大丈夫。今晩のおかずに最高だ。さらに、腹のところに薄い金色が横に走っていたなら、これはもう文句なしの上物。こういうのはすぐに料理店に直行なんだが、もし店先で見つけたら大当たりというわけだ。
 おさらいすると、
 「サバは秋には数え切れないほど獲れる」
 「秋サバはとんでもなく美味い」
 「サバは鮮度が落ちやすいから注意して選ぶ」
 さあこの三つを会得したなら、もう立派なサバマスターだ。この秋に美味いサバを食べまくろうではないか。
 ふふふふふふふ。


 おっ、ヤガラだ

 毎朝市場を歩いておると、そこに並んでいる魚の種類で季節のうつろいなんぞを感じたりする。まだ暑い盛りなのに初サンマが姿を見せたとたん、もう秋かぁ……と急に風も涼しげに感じたりとかな。つくづく日本人は四季に敏感なのだと思う。
 しかし市場に並ぶ魚の中にも、旬なのになかなか姿を見せない奴もおるぞ。
 ヤガラという魚がいて、こう、口が尖ってて、にゅーっと長い面白いかたちしたやつなんだが、これがあまりまとまって入荷しない。昨日あったのに今日はないなんてこともしばしば。だから、あらかじめヤガラを献立に考えるのはむずかしいんだが、我輩などはこいつを見つけたらすぐに買って帰る。これで田毎蒸し(タゴトムシ)にしたのが好物なんでな。
 これはヤガラの頭を落とし、腹ワタ取ってから、細身なら筒切り、太いやつなら二枚におろして厚めに切り、いずれも皮付きのまま薄塩をくれておく。それから蒸し鉢にミツバを敷きつめ、その上にそおっとヤガラを盛って蒸し器で蒸したら取り出し、たまった汁を捨て、中に玉子を割って、半熟程度までもういちど蒸すぞ。そして、カタクリ粉を加えどろりとさせ、カラシやショウガの絞り汁をかけて出来上がり。
 実にカンタンに作れるが、季節限定、しかも魚が入ったときにしか食べられないという絶品なので、運良くヤガラに出会えたなら、ぜひとも試してもらいたいものだ。
 へへへへへへへへ。


 夏バテに負けない「謹製土用シジミのサフランスープ」

 シジミというのは実に身体にやさしい。栄養たっぷりのシジミ汁は、冬の寒い日には心から温めてくれるし、夏バテのときならぐっと飲むだけで栄養が補給されて救われた気分になる。ミネラルを豊富に含むシジミは、夏冬両方に旬がある貴重な食材だ。
 さて、いよいよ夏本番ということで、今が旬の「土用シジミ」のおいしさと栄養を存分に食べつくす方法を紹介しようかな。家庭でもかんたんに作れる「土用シジミのサフランスープ」だ。実はサフランにも強壮作用があるからな、こいつとシジミの最強タッグで身体の中から強引に元気にしてしまおうというわけだ。
 まず、下ごしらえとして、シジミを塩水で2、3時間砂出し。さらに真水に1、2時間つけておくぞ。サフランの方は少量の白ワインに浸して色を出す。この液も使うから捨てないでくれよな。それから、固形スープのもとでもいいから、薄めのブイヨンをつくっておこう。
 さあ作るぞ。
 まず、フライパンにエクストラバージンオイルをひき、薄切りにした玉ネギをよく炒める。これにシジミと冷たいままのブイヨンを加え、色を出したサフランとその液汁を投入。
 そのまま中火にかけて、シジミが開いたら塩コショウで味を整え、パセリなんぞを散らして、はい出来上がり。簡単であろう。食欲がないときでもグイッといける一品だ。
 興が乗ったら、スパゲティを入れてスープパスタでもいけるぞ。


 ヤマイモ変じてウナギと化す

 土用といえばウナギと相場が決まっておる。暑い盛りに街頭で蒲焼のにおいを嗅げば、もうパブロフの犬よろしく足が自然と店内へ向かっているであろう。「土用のウナギは脂がのって旨いし精がつくもんな」、この季節には何が何でもウナギを食わずばいられなくなる。が、前にも言ったことがあったかしらんが、ウナギの本当に美味しいのは秋だぞ。天然物のホクホクとしたやつが出回るのは、もうすっかり涼しくなったあとなんだな。
 「土用のウナギ」が習慣化したのは、よく知られていることだが、江戸時代の博物学者である平賀源内が、暑い季節に売れ口の悪いと嘆くなじみの鰻屋を流行らせようと「本日土用丑の日、鰻の日」と書いたところ、何か理由はわからねえがきっとありがてえんだろう、と江戸っ子が飛びつき大繁盛。それ以来、定着したと言われておる。もうひとつ説があってな。同じく江戸に春木屋という鰻屋が、大量のウナギの注文に一日では受けきれないために、土用の子の日、丑の日、寅の日に分けて焼いたら、丑の日のものが最も味が良かった。そのためウナギは土用丑の日に限るとされるようになったというぞ。いずれにしろこじつけだ。しかしまあ、確かに夏バテ気味のこの時期、滋養満点のウナギがもてはやされるのも当然といえよう。
 ところでウナギというのは、まずもって妙なかたちをしておるから、昔の人は奇妙な考え方をもったものだ。日本では「山芋化して鰻となる」といわれ、山芋の化けたものがウナギだと本気で信じられていたのだ。その理由は両方とも長いから。なんと短絡な考えであろう。だが山芋も滋養強壮効果があるから似てなくもない。これがウナギに化けてのたくるとその栄養価も数倍になるといえば「あ、そうかもしれん」と考えたくなるな。
外国人も相当変テコで、かのアリストテレスなども「ウナギは泥から生まれる」と本気で語っておるし、旧約聖書のモーゼの教えには「ウナギを食っちゃいけねえよ、ウロコがねえ魚だからナ」とある。
 おっと、話してる間にウナギが食べたくなった。土用のウナギを食べに行こう。そして、秋になったら旬のウナギも食べよう。人生何しろ楽しまなくてはな。
 はははははははは。


 海で死んだ魚を見ないワケ

 魚というものはものすごい多産である。イワシやニシンなどは数千から数万粒を産卵するといわれている。これがマグロになると卵の数は何と数百万粒にものぼる。イワシよりもマグロの方がはるかに産卵数が多いのは意外だが、太古からいたイワシやニシンに比べ、マグロのようにずっと最近の年代に登場してきた魚の方がより多産型だということだ。いずれにしろ近年、少子化で子どもをあまり産まなくなった人間に比べて、いや、生物全体からみても、魚類というのは大変な多産なのである。
 にもかかわらず、そこから一対の雄と雌として次代の親となる魚というのはごくわずか。ほとんどがそれまでに死んでしまう。つまり、多産というのは同時に多死亡ということなのだな。数百万粒のマグロの卵から成魚になるのはどれほどの数であろう。親は卵を産んでも放りっぱなしで何も世話するわけではない。天敵にもやられず、厳しい環境に適合した者、万に一つとかいう偶然の積み重ねによって、何とか一本のマグロとして成長できる(それを我々は食する!)
 ほとんどの魚が死ぬために生まれる。何か悲しいものを感じずにおれんが、ところが、これが自然界の理に適っていることなのだそうだ。なぜなら、少しでも生存率が上がれば、海は魚で一杯になり、結局は絶滅に瀕してしまう。たとえば、サンマの成魚が一割増えたとする。すると、およそ200年で世界中の海にみっしりサンマをしきつめてもまだあふれてしまうという状況になるのだそうだ。そんなことにならないように、自然は非情とも思える厳しさでバランスを保っておるのだな。
 したがって公害とか自然災害とかでもない限り、海に死んだ魚を見ることはありえない。淘汰された魚は、すべて他の魚に食べられてしまうからだ。
 このバランスを崩すのはつねに人間だ。本来は人間の勝手ではなく、海の都合、魚の都合に合わせて水産資源を享受すべきではないか。いや、何も啓蒙的なことを言おうというのではなく、水産業者の一人として、つねに謙虚を旨として商売しなければと思う次第である。


 魚の数え方

 ふつう魚は一匹、二匹、あるいは一尾、二尾などと数える。これは、サンマとかイワシとかの尾ひれのついた小さめの魚の数え方だ。しかし、よく注意すると魚の種類によって様々な数え方をしているのが分かるぞ。
 タコとかイカなどは「杯(はい)」と数えるな。これは貝の音読みの「バイ」からきている。貝の数え方なのだ。実はタコもイカも広い意味では貝類の軟体動物と分類されているからだ。
 カツオ、マグロなどの大きな魚は「本(ほん)」という。丸太と同じような数え方だ。
 クジラ、イルカなどの哺乳動物は「何頭(とう)」。魚ではなくて動物だからな。
 ちょっと変ったところでは、コイは「折(おり)」。これは祝い事などでうやうやしく折り詰にするからあろうか。
 シラウオ、サヨリなど細長い魚は箸ではさんで数えたことから「条(すじ)」という。これが20条まとまると「1樗蒲(ちょぼ)」というな。
 スルメや干魚は「枚(まい)」。平べったいから。これが10枚束ねると「1連(れん)」。
 ほかにもニシン200尾で「1束(そく)」、ノリ10枚で「1帖(じょう)」。
 とまあ、さまざまな数え方があるが、どれもいいかげんなものではなくて、魚種や形状によって使い分けているわけで、なるほど魚とひと口にいってもいろいろだな、と理解が深まったりするぞ。
 皆も魚屋さんで買物をするときなど、正確な数え方で注文すると、「お、分かる客だな」と一目置かれて、まけてくれるかもしれんが、多分まからんだろう。
 なはははははははは。


 関西では大スター

 関東と関西の文化圏の違いは、食生活なんかに顕著に現れる。旨いとされるものがずいぶん違うようだな。
 東京の下町の朝食に欠かせない納豆を関西人は毛嫌いするし、逆に湯葉とか葛みたいな「はんなり」したものの美味しさは関東人には分かりづらいものがある。おおまかにいうと関東は「そば」で関西は「うどん」であるし、江戸前の「にぎりずし」に対して大阪「おしずし」。魚の好みも違うぞ。アンコウやアナゴを関西人はよう食べまへんし、祇園祭に欠かせない京都人の心どすえというハモなんか東京じゃあめったに食わねえやな。
 最近でこそ関西人も納豆を食べはるし、東京人にハモっ食いも増えて、その差があまり失くなってはきたが、それでもまだ歴然と違うというものもあるぞ。
 マナガツオという魚がいてな、これ、カツオと名がつくけれど鰹とは縁もゆかりもない魚。これが関西と関東では天と地ほどの評価の差がある。
 関西では高級魚の最たるもので、その扱いひとつにしてもウロコが落ちないように一本ずつ紙にくるんで出荷されるほどで、大変珍重される魚だ。マナガツオの刺身なんていったら、関西人は涙を流さんばかりに狂喜する代物だぞ。
 しかし、アチラでは押しも押されぬ大スターも、関東ではまったく名も知られぬ存在。たまにその姿を見かけることがあっても、せいぜいが味噌漬にされたアラレもない姿。まず刺身なんぞにお目にかかることはない。この魚が関西以南でしか獲れないために、東京方面に新鮮なものが入荷しないのがその理由なんだがな。
 でも世の中すべてファーストフード、ファーストライフへと一辺倒のなかで、こんな地域差があってもいいような気がせぬか。箱根の山を越せない魚があってもむしろ当然。どこへ行っても同じ味のものが食べられるなんて面白くもなんともないぞ。実は我輩、マナガツオを食べたことがない。いつかこの刺身を食べてみたい。それが関西へわざわざ行きたいなという理由の小さなひとつになっていたりする。


 ボラのへそ

 秋になった。今年はどうも天候不順で、秋のおとずれも今ひとつはっきりとは感じられん。今年は夏がなかったというが、そういえば昨年は秋がなかった。いったい地球はどうなっているのであろう。魚を味わうなどは、つまり季節を味わうわけで、これすなわち年を重ねることのよろこびではないかとさえ思うのであるが、何しろ文明の発達と異常気象が季節感なんてものをどこかへ押しやってしまったような気がして残念であるな。
 しかしまあ、とにもかくにも秋だ。秋の魚に登場してもらおう。
 ボラという出世魚がおる。こいつは毎年冬にこどもが海へ下っていき、翌夏になると川を上っていく。このころの体長も10センチのやつを「オボコ」とか「スバシリ」といい、それが秋を迎えるちょうど今頃には20センチほどに成長して名前もイナセな「イナ」になる。そして、30センチくらいになると「ボラ」、さらに5,60センチにまで大きくなると"トドのつまり"の「トド」と呼ばれる。
 さて、秋から冬にかけてのボラは刺身、塩焼きは美味であるし、何といっても卵巣からつくるカラスミはボラ料理の本命ともいえる珍味だな。だが、さらに美味しい珍味があるぞ。それが「ボラのへそ」。魚にへそがあるわけないじゃないかと思うだろうが、確かに本当のへそではない。胃袋への幽門部といって、泥中の虫などを食べるための部分なのだが、ヘソにそっくりなのでそう呼ばれておる。こいつを三つ、四つ串刺しにして焼いたもの。これこそ、知る人ぞ知る珍味中の珍味なのだ。塩をかけても付け醤油で食べても実にうまい。酒は日本酒に限るぞ。
 むふふふふ。


 関西はキハダ

 最も人気の高い寿司ネタといえばマグロ。これはもう異論のないところであろう。何気にテレビをつけると、やれ「大間のマグロ」だの「近海物ホンマグロの大トロ」がどうしたのと、毎日のように放送しておる。本当なのかと首をかしげるものもあるが、これもマグロ人気の所以というものであろうな。
 だからマグロは毎日、食べるか、見るか、耳にするかしないことはないほどなので、これは日本人は本当にマグロ好きなんだなと思いがち。だが、実のところ関東では大スターだが、関西ではそれほどの人気はないぞ。乱暴に言ってしまえば、日本を箱根のところから真っ二つにすると、マグロの消費は東側にドンと傾く。圧倒的に東日本、とくに東京近郊で食べられているのだ。いや、少しばかり語弊があるか。何も関西人がマグロを食べないとかいうのではなく、もちろん関西の寿司屋にだってマグロはあるし、好まれてもいる。だがその種類がちょいと違うんだな。
 マグロといえば、その代表はホンマグロ。東京ではこいつが貴重とされる。あるいはミナミマグロと呼ばれる東インド洋やオーストラリア沖で獲れるやつとか、季節によってはバチだってとっても美味い。ところが関西人はこれらをあまり好まない。むしろ盛んに珍重されているのがキハダってやつだ。
 キハダはマグロ類のひとつで、外見的な特徴、背びれが黄色く鎌のように伸びていていることからそう名づけられた。その肉質もきわだっている。マグロがやや暗赤色なのに比べて、こいつはとてもきれいな紅色をしていて、身もしまった味がするぞ。
 以前に大阪に行ったときに寿司屋に入ってマグロを注文したんだが、出てきたのはこのキハダ。あれ? と思ったが、まあ気にせずに食べた。うまい。で、そのあと他のやつを頼んでから、再び「マグロ」と言ってみたら、またしてもキハダが。「店主、注文したのはマグロだぞ、そこのネタケースに入ってるそいつ」と文句を言おうとしたのだが、そのときの店の親父の顔がね、何ともどっしりと威圧感があって、
 「お客さん、せっかく大阪へ来たんでっしゃろ。なら大坂のマグロ食べてみなはれ」
そんなふうに目が語っておる。別に嫌味な感じではなくな。まあ、郷に入れば郷にしたがえか、などと思い、黙って食べたが、後になってみると、なかなか忘れがたい味ではあった。
 夏のはじめにキハダはとても美味くなる。たまには目先を変えて、一味ちがうマグロを賞味されることをおススメするぞ。
 ほほほほほほほ。


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