コハダにきひてみろ! A 焼けば屍の臭ひする

 コー聞いてくれ。
  幼魚がシンコ、若魚がコハダ、成魚がコノシロと出世目出度きコノシロ族は、"坊主騙して還俗させてコハダの鮓でも売らせたい"と、江戸の川柳にも詠まれたやうに、粋な食い物、江戸土産。娘も惚れる若衆姿の清々しさの代名詞なれど、さても、その古に曰く、煮ても焼いても喰へない魚。ことに焼けば屍の臭ひ立つと、狼の金玉、雲古の柄杓で、顔をしかめて素通りされる、日陰者の時代を過ごしたもんサ。

 今を去ること千三百年余。孝徳天皇が皇子の有馬皇子が都を追われ、逐電したるは東国の下野国に落ちのびたのサ。土地の名士は五万長者が館に寄食して口を糊す身となった。ところが、そこな娘が下野小町と謡われるほどの器量良し。とんと岡惚のべた惚におっこちた。もとより若くて美貌の皇子。程なく二人はねんごろに。とたんに娘はぽてれんの身ふたつで目出度くひり出す玉のやうな赤子。

 それで二人は幸せに暮らせるものかと思ひきや、そこにじゃじゃばりたるは常陸国の国司は加波利入道。儂が先に婚約したのじゃと、破約はまかりならぬと判じ込む。さても困った五万長者。犬の糞で仇されてもかなわぬと、一計案じて言ふことにや「あな哀しや、娘はたうたう死にました。」さうして図抜け大一番、特別あつらへの棺一杯にコノシロをぎゅふぎゅふに詰めて焼きたれば、そのまうまうたる焼死人の臭ひ辺りにたちこめ、かんばり入道、鼻をつまんで退散と相成った。

 そもそもコノシロは「子の代」から来たのだといふ地口なお話で、万葉集には、このときの心根が歌に詠まれているのサ。

   東路の宝の八島に起つ煙り 誰がコノシロにつなし焼くらむ



 コハダにきひてみろ! B 大江戸を開いた魚

 かの東照神君が江戸に幕府を開かれてからすでに400年を数えるといふことで、その節目にあたる昨年は、各地で催し事が盛んに行はれた。がしかし、実はそれより早く江戸を治めた者がある。江戸開府よりさらに150年遡る、中世は室町時代中期に名を馳せた武将太田道灌公その人だ。

 時は1456年春、その頃、武蔵国は荏原郡品川城に居を構えていた道灌公、ある日のこと鎌倉江ノ島の弁財天へ参詣に参った。そしてその岐路、舟が品川の入江にさしかかると、そけえ打つけに一匹の魚が船中に飛び込み、道灌公の座っている辺りにもずくり込んできた。ほほう、これは不可思議千万。全体この魚は何者ぞ。いぶかしんだ道灌公が尋ねられると、船頭曰く、これはコノシロにございます。
 なるほど、これはまさに吉兆なり。コノシロとは九つの城に通じる。よし、儂は九つ目の城を造るぞ。その時分に道灌公は関東に八つの城を構へていたんだが、コノシロを見て九つ目を築城する気になった。

 さうして拵えたのが江戸城といふわけサ。ナニ城といっても中世にはさのみ立派なものではなく、館といった方がふさはしいかと思ふが、これが後の家康公入府によって威容を誇る天下の江戸城につくりかへられ、明暦の大火、所謂振袖火事ででポロリと焼け落ちるまで、豪奢な五重の天守閣が天下を睨んだもんだ。さらにその系図は現在の宮城にいたるといふから、一尾のコノシロがこの大都市を築かれる、その運命を変へちまった、てなわけサ。
  はんっ。てんで、でかばちもないようなお話だあな。



 コハダにきひてみろ! C 喰ひたい魚

 コー聞いてくれ。
  何しろかつての江戸湊には、うんぜえまんぜえとコノシロが泳いでやがった。だが生憎とこれが煮ても焼いても喰へねえ魚。獲っても殻を踏むで一文にもなりゃあしねえ、漁師たちの歯ぎしり尻目に、おれらぁ、ぞろっかと海を往来してやったんだ。何しろその時分の漁師たちと来た日にや、どふして不手廻りで味噌漉下げた暮らしぶり。ああ、コノシロを喰ひてえナ。これっぽどいやがるんだから、片っ端から売りさばき、鳥目にあずかりてえ。山吹色も拝んでもみてえと、ナニ、貧の盗みに恋の歌といふわけだ。

 ところがいつの世にも目の利く奴はいるもんだな。幾瀬の想ひを積み重ねて、たうたうコノシロの喰ひ方を発明した。つまり塩をして酢じめにして喰ふてえと、こいつがすこぶるつきに旨えことをめっけちまったんだな。それで、何しろ滅法界獲れるわけだから、皆よろこんで喰ふやうになり。つひに江戸っ子の好物の代表格となつちまったてな寸法サ。

 コー思ふんだが、何しろ食文化なぞといふが、こいつあ旨いもんをたらふく喰ふことだと見当つけたらとんだお門違いサ。さうぢゃねえ。ここにどっちりと喰へねえ魚があっても棒にふらず、何それと骨を盗んで、たうたう喰へる料理を拵えちまった。この発明ってえやつこそ、これ文化といふもんぢゃござんせんか。



 コハダにきひてみろ! D コノシロはまかりならぬ

 ぞろっかと泳いでいやがるコノシロを存分に喰ってみてへ。そんな江戸っ子の悲願が実を結び、酢〆にしたコノシロは江戸土産といふほどに賞玩されるやうになり、江戸市民はきそってこいつに舌鼓を打ったのサ。ところがだ、世の中にや、それでも喰へねえってな人びとがいたんだ。お侍さんたちよ。

 コノシロといふ魚、死ぬと腹が切れる。これが切腹に結びつくといふ理由で、縁起が悪いと武士は決して口にしなかった。もうひとつ。コノシロという名前が「この城」につながる。城勤めの侍が城を食ふとは何事かと、連中は本気でさう考えていたんだ。まったくこんなに旨いもんを二本差ってえだけでまったくのウンコの柄杓。そればかりか七里けっぱいで寄るもまかりならぬといふのだからまあ、あんにゃもんにゃなお話サ。

 武士は食わねど高楊枝、などといっても、やはり喰ひたい。喰ひたいものは喰ひたいわけで、どふがなしてこいつを腹に納める法はないか。さうだ、どうだらう、コノシロじゃなくてまっと違った名前にならんか? ナニ、コハダ、よしそれならば、喰はう! それに何だ、酢でしめてあれば良いだらう、なんぞと、よく分からねえ道理だが、さうした建前にかこつけて、武士も町人もうやふやになってコハダに舌鼓を打つやうになった。それで江戸では一年過ぎたコノシロでもコハダと呼ぶ。何しろコハダで通すものなんだ。

  坊主騙して還俗させてコハダの鮓でも売らせたい

 こいつあ、あんまり容子が良いから坊主にさせとくなァ勿体ねへ。いっそ還俗させてコハダ鮓の棒手振させたら、きりりと良いカタチだらう、てな意味でね。つまりさっぱりとした味わいのコハダは実に江戸っ子好み。それで、こいつを売ろうってえ方角師もどうしたって男前でなきゃならねへ。それくれえコハダは江戸の人びとの思い入れ深く好かれたわけサ。

 さても長居してさんざ口前たれちまったナ。ここいらで焼切つけて、おれもそろそろ海へけえるとするか。あんまり遅くなって嚊ァにかすを食っても不可ねえしな……何だ、お前刃物なんか出してきて、どふしやうってんだ。ええ? 何だよ。片手に持ってるなァ、そりゃあ酢だな。おだやかぢゃねえな。

 まあ、こちとらあ、尻喰観音決め込んで、はい左様ならと……おい、手前なにしゃあがるこの野郎。いっそいめいめしい悪性め! このおれ様はな、コハダの兄ィときかれた……

  うぐっ!



 ウナ公大放談 @ 生まれはどこだか分からないウナ

 ハイ、ニョロッと出ました。

 オラはウナ公いいますウナ。
本日はオラが首尾よく生簀から逐電し、ドブ板の下へもぐり込もうというところを、親切なダンナさんに拾っていただき、こうしてお宅へご厄介になるということに相成りましたウナ。よろしゅうお願いしますウナ。
時に朝からオラ何も食べてないウナ。腹ペコで身体が細〜くなってしまったので、何か食べさすかダンナさん? ムギ飯? ウナギにムギ飯食わせるかウナ? まあ、いいや。
  いただくウナ。 ウグウグウグ・・・ウグウグウグ・・・ウグウグウグ・・・

 ふぅー。だいぶ腹がふくれたウナ。太くなったか? 食ったら眠くなったから、ダンナさん、床をのべてくんせえ。ナニ、ウナギの寝床でけっこうウナ。
え? 何ですウナ? もの言うウナギは珍しいから何か話せと。オラの何がききたいかウナ? 生まれ? 生まれはどこかというかウナ。

 ……分かんね。
 ナニも分からねえよお。オラたちウナギ族はどこで生まれたのか、覚えてるヤツは一匹もいないウナ。どこに卵を産むのかも分かんね。それというのも身体がニョロッと長いから、考えが全身に回るまでにすぐに忘れちまうだなウナ。それにそんなことを考えるよりか、オラたちは細く長〜く生きることを心がけているよ。

 ウナギの卵って誰も見たことないっていうけど、オラたちもどこにあるか知らないウナ。もしもウナギを卵からかえせればノーベル賞を獲れるそうだね。とてもカンタンなことだから教えてあげたいけど、忘れちゃったウナ。いつか自分の過去を思い出すことがあったら、ダンナさんにだけそっと教えてあげるウナ。



 ウナ公大放談 A オラこそ本当の江戸前だウナ

 ダンナさん、よく江戸前寿司なんてことをいうけど、いかにも新鮮で威勢の良い感じだけど、本当はそんなのありはしないウナ。
江戸前というのがどんなものか考えてみるよろし。よく江戸の前海、つまり江戸湊で獲れたものを江戸前と言う、なんておっしゃる人いるある。でも江戸時代には江戸前なんてことはあまり言わなかったウナ。
 江戸前とは城の前、東側から大川の西側の範囲をいうので、海も含まれるが一般的には河川のことなので、隅田川とか神田川とかで獲れたものなので、それを唯一江戸前と呼んだので。

 じゃあ、そこで何が獲れたのよ、というかダンナさん。それ、実はウナギのことなのね。ウナギばかりは土地のもので行かなきゃだめウナ。遠くから運んだものは「旅鰻」といって嫌われたから、ここで獲れたものを食わせるぞ、という売り文句としての「江戸前」だったわけ。江戸前というのはまさにウナギのことウナ。

   深川鰻 薬研堀鰻 池之端鰻

なんてのが江戸前鰻の名産で、ことに深川ウナギは中くらいの、身が固いけれど鰻食いにはたまらないなどといわれたウナ。

 ダンナさん、歴史好きだからいうけど、昔の本にはこんなふうに書かれているウナ。
 田舎から出てきた者が、「江戸前とやらの幟のあるところへ、こりゃあにを売るとこだと、わしゃよくよく覗いて見たら、"おなぎ"のことを江戸前といふのかへ・・・」
 「そふさ、うなぎは江戸の前で捕ったのがいいから、それで江戸前といひやす」

 服部倉次郎という人が、明治二年、深川十万坪に日本初の「ウナギ養殖場」をつくったウナ。ちょうど近所に冨岡八幡があるし、大変な繁昌をして、江戸前鰻の需要を支える存在となっただな。ところが、下町の地盤が低いことから、ちょっとした雨で池が氾濫しウナギが逃げ出してしまう。夏には水温が上がって渇水や病気の心配に煩わされる。そういった理由によって、せっかくの養殖場も明治二十年に浜名湖に移転してしまったウナ。これをきっかけに江戸前ウナギというものが事実上姿を消すこととなり、鰻屋の看板からも「江戸前」という言葉が消えていったのら。



 ウナ公大放談 B 火山の爆発でウナギ屋できるウナ

 「江戸前」という輝かしい称号をちょうだいしたウナギだけど、実のところこれは江戸で生まれたものじゃないのね。京都の四条河原で鰻を裂いて焼いて売ったのが、いわゆる蒲焼のはじめ。これが江戸時代初期のお話。京都ではずいぶん早くに鰻が食べられていたようで、その後、近松の浄瑠璃に「山椒醤油蒲焼で――」とあるように、タレも発達していたことが分かるウナ。

 一方、江戸に鰻の蒲焼なんて登場するのはずっと後のことで、元禄時代でもまだ食わない。やっと享保の頃になって鰻を食ったという記録が出てくるウナ。でも鰻屋というのが登場するのは天明年間に浜町河岸にできた「大黒屋」とうのが最初だというよ。

 この天明期には浅間山爆発に続く大飢饉に見舞われた時代で、江戸でも炊き出しなどが行われ、それとともに多くの屋台店ができたウナ。それまでの担売り、振売りから屋台売りというスタイルへと移行していく契機ともなったわけで、ぜったいに立ち食いなどしなかった武士さえもこっそりと買い食いをするという風情が生まれてきたウナ。そして、屋台店で人気となったものを店構えで提供するといようにして鰻屋なんぞというものができたというわけだウナ。



 ウナ公大放談 C ごはん持参で鰻屋へ出かけるウナ

 鰻屋というのは、本来は料理を出さないというのが相場になっているんだウナ。
鰻だけ売るのが良い鰻屋だとされているよ。だから、現在でも老舗と言われるところは鰻しか出さない。せいぜい肝吸いが関の山というところなのだウナ。

 昔は芸者を連れて鰻屋へ行くなんてのはまったく無粋だと笑われたそうだよ。何にも料理はないし、仕方なく鰻を二人前注文して酒を飲む。でも食べきれるものじゃない。土産にしてもらって折りブラで芸者と歩くなんて図柄はお笑いだというわけだウナ。
ダンナさんも気をつけるといいよウナ。

 さて、天明期に鰻屋ができたことは前回言ったけど、この頃は本当に鰻しか出さない。昼飯に食おうとうれば茶碗飯を持参していくなんてことをしたというんだウナ。
それが天保年間になると、
 「昔は飯をこちらから持っていったのが、近頃じゃいづ方も飯を添えて売り、また茶碗盛なんぞもあって便利になった」なんて記録があるよ。




 ウナ公大放談 D テイクアウトの元祖、商品券の元祖だウナ

 ダンナさん、ちょいと一本つけてくれるかえ。
 おっと、こりゃありがてへ。
 
 これで鰻料理というのはなかな融通の利かないものとなっていたウナ。「旅鰻」はいけない江戸前の地のものに限るといって何としても江戸市中で食べた。また、冷めると旨くもなんともないから、取り寄せはダメだ。是非とも店に食いに行かねばなりませぬ、ということになるウナ。それなら串刺しの奴を買ってきて自分のところで焼けば良いだろう、というとこれもダメ。手前鰻は猫またぎといって、あの焼き方はとても素人にはできないといわれていたんだ。そこで鰻というのは店に出かけて行って食わなければお話にならないということになっていたウナ。

 あ、かたじけない。おっとっと・・・
 では、ご返杯・・・

 でも、鰻は食べたいけれど、どうしても店に行けない、身分というものもありましたから、そんな人が困ってしまう。そこで一計を案じてあつらえたのが「おから鰻」というやつ。これは豆腐の殻を煎って、薄く醤油で味つけし、熱くしたやつを重箱に詰める。それに蒲焼を入れて持ってくると、熱々が食べられるという寸法だ。多分、これが現代でいうところのテイクアウトの初めじゃないかと思うよウナ。
 蒲焼についてはもうひとつ、進物用の「切手」というのがあって、これは先に代価を支払い、受取書付に代を書き入れて取っておき、これを贈答として使います。まことに手の入ったやり方だけど、これで相手は好きなときに熱々の蒲焼にありつけるわけね。これなどは商品券のはじまりといっても良いでしょうなウナ。


ウナ公大放談 E うな丼を発明した男だウナ

 文化文政期に日本橋堺町の中村座で金主(資金を出す人)をしておりました大久保今助という人がいたよ。この人は何かと話題が多く超有名。なかでも鰻丼の発明者としてその名を歴史に刻んだ人なのらウナ。

 今助が故郷常陸国太田に帰るおり、牛久の茶店で今しも蒲焼に食らいつこうという矢先、「おうい、舟が出るぞお!」の船頭の声。今助はとっさに蒲焼の皿を片手に持つとかたわらのどんぶり飯の上に逆さにかぶせて、あわてて舟に乗り込む。そして対岸に着いてから皿のふたを開けてみると、蒲焼が飯の温度で蒸されて柔らかく、タレは飯にしみこむし、とても旨い。うむ、これはいける!

 さて、この男、普段から鰻を食いに行きたいのですが、何しろ芝居の金方ですから忙しくて表に出られない。取り寄せたのでは焼きざましになってしまう。そこでこの逆さ丼の方法で、熱い飯を入れた丼を持たせてそこに串ごと入れたやつを持ってきて食うということをはじめたのらウナ。これは大変に旨い。実に合点のいく食べ方だということで、芝居町を中心に大変に流行った。
  これが「うな丼」のはじまりで、今助はその創始者ということになってるよウナ。


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