あ行><か行><さ行><た行><な行><は行><ま行><や行><ら行><わ行
凡例: 項目中、(日)とあるのは日本橋魚河岸時代特有のことば、 (築)とあるのは東京都中央卸売市場築地市場になってから生まれたことばを示す。

<あ>

あいもの【相物】
1)塩を合えるという意味で塩魚を扱う業者を指す。商物(あきないもの)が転じたという説もある。昔は塩をしたり干したりした魚が中心で、「始終ある物」なので「四十物(あいもの)」といった。「いさば」ということもあった。→いさば
築地市場では、 干物を扱う業者を塩干物(えんかんぶつ)、一夜干のような“半生”を扱う業者を合物(あいもの)といったりする。
2)魚屋のこと。中世の教科書 「庭訓往来」(1334年)に鎌倉で“芸才七座の店が繁盛した”とあるが、この七座とは絹、炭、米、檜物、千朶櫃、相物、馬商という七つの問屋店のことで、この相物というのが今の魚屋のことである。 東京で魚屋の屋号に「魚」という字をつけるのを地方では「相」と称するのはその名残り。

あかしちょう【明石町】
 築地市場の隣町。文明開化には外人居留地が出来るなど近代化の発祥の地。先代の仲卸や飲食店主が多く隠居暮らしをしている。かれらは毎日午後7時に就寝し午前2時に目覚め、植木の世話には余念がない。月島や勝どきを川向こうと呼び、「月島なんてアンタ、昔は海よ、誰も住んでなかったのよ」などとイキイキと語ったりする。

あきないのしやわせ【商いのしやわせ】《慣用句》
 金額を表す符牒の代表例。(あ・き・な・い・の・し・や・わ・せ)左から1・2・3…と順に数字を充て、たとえば2500円なら「はい、きの〜」などと言う。このような符牒は繰り返しのないひらがな九文字からなる縁起の良いフレーズが多く、店ごとに各種存在する。

あさ【朝】
 市場の朝は早い。どのくらい早いかというと、前日の午後9時頃に長距離トラックが入ってくるのをもって早朝と言う人もいて、午前4時には早やかきいれ時、午後1時には店じまい、夕方5時頃にはほとんど人はいなくなり真夜中という具合である。
 世の中には世界時(GMT)と日本標準時(JST)とともに築地標準時(TST)があり、日本の時間とおよそ7時間の差がある。築地にやって来る買出人は、日付変更線である海幸橋を渡るところで、腕時計を調整する。

あさいちでこい!【朝イチで来い!】《慣用句》
 河岸で「明日朝イチで来い!」と言われて翌朝6時頃行くと「おせえぞ!」と怒鳴られる。この場合、朝イチとは午前3時のことである。

あたま【頭】
1)市場ではマグロの頭は業者に引き取られ、加工品に生まれ変わったり、見映えの良いものは「兜焼き」に供される。
2)「アタマライス」。築地市場「豊ちゃん」のメニュー。カツ丼の具と飯が別々になったもの。
「――2つね」などと注文する。

あにき【兄貴】
1) 近しい人間に対する人称。同義語に「シャチョウ」がある。
 「魚辰の――おそかったじゃない」
2)ちょっと不平を言う時に使用する人称。
 「おい――何やってんだよ!」
3)義兄弟の杯を交わした弟分が尊敬を込めて言う人称
4)店で在庫の古いものを指して言う符牒。
「そっちの――から売っちまえよ」

あら【粗】
 魚をおろした後のいらない骨やはらわた。魚腸骨(ぎょちょうこつ)ともいう。肥料などに生まれ変わる。

あんじんちょう【安針町】《地名》(日)
 三浦按針(みうらあんじん)の受領地であったので名付けられた。三浦按針はイギリス人ウイリアム・アダムスの気化名。遠征艦隊リーフデ号の航海長として南回航路を進んできたが、途中で難破し、慶長五年(1600)豊後に漂着した。おりしも関が原の戦いの直後で、家康は船員たちを歓待し、船を修理させたが、帰国を許さなかった。そこで、船長カルケルナックらは、アダムスと航海士のヤン・ヨーステンを江戸に残し、別の船に乗って東インドに旅立った。残された二人は帰化して、江戸に拝領屋敷を与えられた。
 三浦按針は元和六年(1620)平戸で没した。安針町の人々は毎年米八斗ずつを供えて菩提を弔ったという。按針邸は日本橋川畔、およそ八百坪で、この屋敷があった頃には魚河岸はなかった。
なお、ヤン・ヨーステンが拝領した屋敷地は八重洲(今の東京駅付近)で、古くは八代州(やよす)といった。もちろんヤン・ヨーステンからとったものである。


<い>

いさば【伊佐止:五十集】(日)
1)主に市場で塩干物を扱う業者を指す。合物業者。→合物
2)産地で魚を集める商人を「いさば」ともいう。在方問屋、地小買問屋。
「磯辺」から転じた言葉だといわれるが、わずかなものを集めるという意味の「いささば」から来ているという説もある。

いさみはだ【いさみ肌】(日)
 「いさみ」は勇みと書き、気概をはる者を意味する。日本橋のたもとに建つ魚河岸の碑文には「江戸任侠精神発祥の地」とあるが、江戸時代、気が荒くせっかちで肩肘をはった魚河岸人たちは「いさみ肌」の代表とされてきた。これは、商品が腐りやすく、買うにも売るにも手早くやらねばならないことから自然に身についた魚河岸人の気風なのだが、とりわけ「御用肴」と書かれた札をさげた車に魚を積んだ若い衆が呉服橋内の膳所に走る時には、大名さえも避けたなどという逸話がある。
現代の魚市場にはケンカ早い者や正義感の強い者は多いが「いさみ肌」の兄ィというのにはまずお目にかかれない。もはやそうしたことに美意識を持つ者がいないのだろうか。魚河岸の「いさみ肌」の最後は、佃政こと故金子政吉親分だったといわれる。

いそがしいからあとにしろ【忙しいから後にしろ】《慣用句》
 市場はとにかく忙しい。いかなる理由かしれないが、誰もがいつも忙しがっている。のんびりとタバコを吸っている人に話しかけても、やはり「忙しいから後にしろ!」などと言われてしまう。多忙な彼らを振り向かせるには、すれちがいざまに思いきり耳でも引っぱってみるとよい。が、どうなっても知らない。

イチバー【いちばー】(築)
 最新流行の市場ファッション(ウソ)。近頃ではブーツからゴム長に履き替え渋谷を闊歩するコギャル達の姿までも報告されている(ウソ)。ゴム長にスポーツ新聞をつっこみ、魚を包む蝋引を折って帽子にし、ワンカップなど飲りながら「売れねえヨ」とつぶやけば、それなりイチバーになりきることはできる(ウソ)。しかしながら本物のイチバーへの道は険しく、非常に敷居が高いといわれる(ウソ)。

いてんもんだい【移転問題】
1)明治22年の内務省「市区改正条例」により、日本橋魚河岸の移転問題が議会でも大きく取り沙汰された。市場内には、移転派と存続派がいて大きく対立した。主に移転派は新興の問屋であり、存続派は老舗の大店だったという。 結局、関東大震災後、なしくずしに築地へと移転した。
2)築地市場の老朽化への対応として、80年代に同市場の大井移転案が浮上し、大騒ぎとなった。市場内の業者が一致団結して築地本願寺において総決起集会が行われた。また、それとは別に、移転候補地が野鳥の生息地であったことから、「野鳥の会」が猛反発。結局計画は消滅し、築地市場の現在地再整備が決定した。
3) 90年代後半、にわかに市場移転案が浮上し、市場内は現在地か移転かで大きく揺れたが、平成13年、東京都は豊洲移転を明確に打ち出したことにより世間的にも移転が決定したように認識されている。しかし、移転候補地である豊洲地区は交通アクセスの不備や、シアン、六価クロム、カドミウムなどの化学物質による汚染地域であることから、今だ多くの懸念材料を残し、また、地元中央区や業者からの反対も強く、その決着には今後も予断を許さない状況にある。


<う>

うおがし【魚河岸】
 築地の魚市場を「魚河岸」と呼ぶ。しかし、同じ東京でも千住や大田の魚市場を「魚河岸」と言ったりはしない。「魚河岸」という呼称は魚市場が日本橋にあったときに生まれた。「魚河岸」または「河岸」といえば日本橋魚河岸を指した。そして日本橋から現在の築地へ移転した築地魚市場を慣例的に今でも「魚河岸」と呼ぶのである。

うおがしのひ【魚河岸の碑】
 日本橋のたもとに建っている乙姫さまの碑。かつて魚河岸が日本橋にあったことを記憶にとどめようと、昭和29年に旧魚河岸関係者によって建てられた。現在、首都高が頭上を走り、人が忙しく行き交う中であまり目立たないが、市場人なら一度見ておきたし、久保田万太郎による含蓄ある碑文もぜひ読んでおきたい。

うすぎ【薄着】
 市場の人々はとにかく薄着である。真冬の吹きさらしでもTシャツ1枚で平気な顔をしている。一体何ごとだろう。その理由として考えられるのは
1)市場人はイヌイット系の別民族である
2)実は裏地のついた着ぐるみで、中におんなじ姿の本物が入っている

うった!【売った!】《感嘆詞》
 仲卸の店主が買出人の言い値に陥落したときに、あえて威勢良く怒鳴ることば。
「これはいくらだい」「メナラだね」「ダリ半でどうだ」「…ダメダメ」
ここでお客は帰っていく。店主は本当は売りたいのだが、あっさりと客の言い値で売ったのでは沽券にかかわる。どれ、少し歩かせてから声をかけてやれ。客の方でも心得たもので、わざとゆっくりと歩いていく。ええ、ちくしょう、ノロノロ歩きやがって!店主は内心ビクビクしながら頃合を計っている。そして客がついに通りの角を曲がろうというその時、ありったけの声で威勢良く、「よし!売った〜!」

うれねえ〜【売れねえ〜】《感嘆詞》
 市場で2人以上のオヤジが顔を合わせると必ず口にする言葉。
  Α「おい、兄ィ、全然売れねえなあ」
  B「おお、まったくだ、ちっとも売れねえ」
  C「あー本当に売れねえ、天下の魚河岸も焼場みたいに静かじゃねえか」
  尾「駄目である。これじゃあ、今に空中ブランコが出るよ」
一同 「あっ、ご隠居いらしてたんですか」
 右を向いても左を見ても、売れねえ、売れねえ…まるで時候の挨拶のように繰り返してる。頼む、うそでもいいから、売れて売れてしょうがないと誰か言ってくれ〜!

<え>

えいがにみるうおがし【映画に見る魚河岸】
 魚河岸のイメージは映画になりやすいのか、昔からたびたび娯楽作品などに登場している。例えば、中村錦之助演じる「一心太助シリーズ」はお江戸日本橋魚河岸を舞台にした勧善懲悪の胸のすくシリーズで、威勢の良い魚河岸の兄イたちが物語のテンポを高めている。
「日本侠客伝(関東篇)」(主演:高倉健、大映 昭30)では、関東大震災により築地へ移ったばかりの頃、魚市場協同組合のゴタゴタを描いたもので、内容は典型的な任侠映画だが、魚河岸と侠客の世界が妙にマッチしていて心地良い。
 同じく昭和30年には美空ひばりと高倉健の共演で「魚河岸の女石松」がつくられているが、市場内をライブ撮りした映像には、ダットサンや腰にそろばんを下げた買出人の姿がしっかりと収められており、当時を知る上で貴重である。
「上を向いて歩こう」(主演:坂本九 東宝)は、少年院を脱走した九ちゃんが、ひょんなことから少年課の刑事(芦田伸介)の家にやっかいになる。芦田は町のグレン隊(!)の少年たちを自宅に寝泊りさせては、更生のために築地市場に送りこんでいた(市場ってそういうところだったのか……)。
このほか娯楽映画ではないが、昭和14年に日活がつくった「栄養の関門」(主演:沢村貞子)は、完成間もない築地市場の宣伝映画としてつくられ、資料的価値は高いが、残念なことにフィルムの存在も確かめられておらず、幻の映画となっている。
 ほかに、こんなんあります。
−石松シリーズ−
1. 1953.01.29 魚河岸の石松  小石栄一
2. 1953.06.10 続・魚河岸の石松  小石栄一/小林恒夫
3. 1953.09.29 続続・魚河岸の石松  小林恒夫
4. 1954.01.15 続続続魚河岸の石松 大阪罷り通る  小石栄一
5. 1954.04.20 続続続続魚河岸の石松 女海族と戦う  小石栄一
6. 1955.02.20 魚河岸の石松 石松と女石松  小石栄一
7. 1955.02.27 魚河岸の石松 二代目石松大あばれ  小石栄一
8. 1955.08.14 魚河岸の石松 マンボ石松踊り  小石栄一
9. 1955.10.25 魚河岸の石松 石松故郷へ帰る  小石栄一
10. 1958.05.07 三代目 魚河岸の石松  小石栄一


<お>

おうべいうおいちばのぞきき【欧米魚市場覗記】(日)
 日本橋時代の魚河岸で活躍した小網源太郎が欧米市場の視察をまとめた記録。日本と諸外国の自動車台数の差や魚を捨てるアメリカの奇習などが興味深く綴られていて、今読んでも面白い。小網源太郎は帰国後間もなく本の上梓を見ずに逝去した。魚河岸が日本橋から築地に移り中央卸売市場へと変転していく時期に、とても惜しまれた死である。

おおもの【大物】
河岸ではマグロのことを大物と呼ぶ。
大きいから。
関西では太物と呼ぶ。
太いから。

おおものぎょうかい【大物業会】
 マグロを扱う仲卸の団体。だが一般の人がその名をきいて想像するところはちょっと違うようで、 「ほほう大物…一体何の事務所ですか」と興味ぶかげに尋ねるのはまだ良い方で、なかには目を伏せて無口になり離れていこうとする人もいる。何だと思ったんだろう。ちなみに昔は「大物組」と呼んでいた。うわあ、それじゃ本物じゃん。


おさかなかるた【お魚カルタ】
(築)
 昭和15年、魚市場会社企画部の宣伝係であった長谷川秀雄が作製、魚の販売促進用として、お得意先や仲買店に配られた。「いろは48文字」のそれぞれが魚のうたになっており、多色刷りの大変に美しいもの。年配の市場人は、みんな子どもの頃、このカルタで遊んだ思い出を持っているが、戦争中のゴタゴタなどで四散し、長年幻のカルタと言われていた。
 ところが、平成10年に水産仲卸人がこれを発見、ついに50余年の時をこえて復刻された。
 長谷川秀雄は、明治41年、佃島にエビ問屋の長男として生まれ、若い頃より魚河岸のリーダー的存在として活躍する一方で、文芸や演劇の方面に才能を花開かせたが、残念なことに戦争にとられ、昭和18年、南方ニューギニアにおいて戦死された。


おんな【女】
 市場では女性の絶対数が少なく、特に若い娘は希少であるためとても大切にされる。
  シャケ屋のユミちゃん(仮名)は河岸に来た頃、ちょっとトイレに行くにも買い物に行くにも、あちこちの店のおぢさん達から声をかけられて少しはずかしかった。しかし、頬をサーモンピンクに染めた可憐なおねえちゃんもいつしか男どもを圧倒する逞しいおばさんへと変貌していくのである。可憐な娘も凄みのあるおばさんもどこか情にこまやかで、市場ならではの愛すべき存在である。

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<か>

かいこうばし【海幸橋】(築)
 築地市場と場外市場を結ぶ橋。市場にちなんで「海の幸」からつけられた。早朝からたくさんの買出人が行き交う日本で最も活気のある橋のひとつ。橋のたもとには波除神社が鎮座し、市場の雑踏とは対照的な風情をたたえている。土地の人たちは愛着をこめて「かいこばし」と呼ぶ。
  築地川の埋立てで、川のない橋の状態であったが、平成13年、橋梁の撤去工事が行われた。しかし、鋼下路アーチ橋という特異な構造をもつこの橋の撤去を惜しむ声が強く、一部が保存されている。

かしのくうきはひとをこやす【河岸の空気は人を肥やす】《古諺》
 河岸では空気中に新鮮な食材のエキスが溶けているので、市場に来て呼吸をするだけで太ってしまうと言う人がいる。転じて市場の人間はダイエット出来ないという意。
「おヤス姐さん」は女だてらに5人前くらいは軽く平らげてしまう大食漢だが、毎週のようにダイエット宣言をし、昼食を抜く。が、次の日にはめげて、抜いた日の分まで食べてしまう。そんなとき彼女が言う台詞「ダイエットなんてやってもムダさ。河岸じゃあ空気吸うだけで太っちまうんだからね!」

がすとう【瓦斯燈】(日)
 日本橋魚河岸で幼少を過ごした長老たちが口を揃えて懐かしく語るもののひとつに、夕暮れ時のガス燈がある。明治中頃に本船町から日本橋にかけての通り両側にガス燈が設置され、魚河岸の夜を青く照らした。夕方になると長い竿を持った「点火夫」が回ってきて次々と青い灯を点していくと次第に夕闇が迫ってくるさまは、静まり返った魚河岸をしみじみと映していたという。
そんな情景は市川昆監督映画「日本橋」(原作・泉鏡花)にも登場する。

かるこ【軽子】
 茶屋などに荷物を運ぶ人のこと。
 差別的だという理由で配達人という呼び名に改められたが、軽子の呼称に愛着を持つ人も多く、今でも河岸の中では「軽子の○○さん」といった言い方がされている。
類似に小揚という職業があるが、小揚が卸会社に属してセリ場に魚を運ぶのに対し、軽子は仲卸に勤めて、茶屋出しなどの配達を行う。また、小揚が組合組織として一定の権益を確保してきたが、軽子は、現在は仲卸の従業員として雇われているが、かつてはどこの店にも入らず「立ちん坊」として市場内に徘徊し、決まった駄賃料の協定もなく、もっぱら客との相対で恩恵を受けた者もたくさんいた。かれらの多くは出稼ぎの労働者で毎年農閑期にやってきて4月に帰ることから「カモ」などと言われていた。
 大正11年頃の記録をみると、日本橋魚河岸に常時150名程度の軽子がいて、冬期に市場の荷扱いが増える時には500名になることもあった。一人の所得は一日平均3円程度。問屋の店員の月給が5〜10円であったのに比べると、かなりよい収入だったろう。 →小揚

かんさいもの【関西物】
 →箱物

かんとうだいしんさい【関東大震災】
 大正12年(1923)9月1日、相模湾を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震は、15万人の死者と数百万の倒壊家屋など、東京、横浜を中心に甚大な被害をもたらすと共に、朝鮮人虐殺治安維持法の施行などの社会的影響もはかりしれないものであった。そして、魚河岸もまた震災によりその運命を大きく変えることとなった。
 当時、日本橋魚河岸は移転派と存続派が大きく対立していた。交通渋滞や風致などを理由に魚河岸を日本橋から撤去させたいというのが数十年来の東京市の考えであり、魚河岸の中でも新興の勢力は新天地での可能性を夢見ていた。 しかし、老舗の問屋たちは頑として反対した。彼らには既得権があり、守るべき伝統があったからだ。
 大正12年3月には不完全ながらも中央卸売市場法が公布されたが、それがすみやかに魚河岸の整備につながるとは行政当局も考えておらず、魚河岸の移転は困難をきわめていた。
そこへ未曾有の大震災である。移転派はこれを好機ととらえて早急に行動した。そうして芝の仮設市場を経て築地海軍技術研究所の跡地へ短期間のうちに移転を完了する。 しかし、魚河岸の存続派たちは、たとえ焼けても日本橋に戻ってくれば商売をするのは自由である。かれらの多くは、まだくすぶる熱い灰をかきならしバラックを建てて商売をはじめようとした。日本橋魚河岸を再興することも可能だったかもしれない。しかし、当局は道路使用禁止という強行策を取り、それを認めなかった。
 日本橋魚河岸は消滅し、中央卸売市場築地市場が誕生した。 300余年の歴史に幕を引いたのは、魚河岸の急進派勢力と国政と、人智のおよばぬ巨大な大自然の力であった。


<き>

きゅういちび【休市日】(築)
 「鳥の啼かぬ日はあれど魚河岸に休業の日はない」と元日を除いて年中無休を誇っていた魚河岸に月一回の休みができたのは大正7年のことであった。当時定休日を持っていた商売は床屋と風呂屋くらいで商店には盆と正月以外に休みはなかった。 だから荷主の連中は「バカいっちゃァいけネエ。生の魚を扱うのに休みなんてトンデモネエ。だいいち人間様の胃袋にゃァ、休みなんてあるものケエ!」と怒ったという。
 また、問屋の主人たちも休みなんかつくると遊び呆けて若エもんが身を持ち崩していけねエと良い顔をしなかった。しかし、工場法ができて世間の工場や会社が定休日を設けることとなり、魚河岸も毎月22日が休市日となる。なぜ22日かというと、この日が統計的に一番売れ口の悪い日だったからだという。
 そして大正7年4月22日、魚河岸はじまって以来の休市ということで、三越前に屋台を設けて太神楽万才で人を集めた。休みだからって若エもんは遊び呆けたりしねえよ、というところを見せたのである。
 戦後、築地市場では昭和24年には魚類部が毎月2のつく日、青果部は5の日と休市日が定められた。しかし、その後の時代の変化と共に市場も世間並みに日曜週休にすべきだという声が上がった。仲買人の中には例によって「むかしは正月以外に休みなんてなかったんだぜ」と反対者もあり、初代市場長荒木孟は「日曜休市の実施が市場の近代化ということではない」という意見を発表し論議をかもしだした。しかし、魚河岸の文化団体「銀鱗会」の活躍によってついに実現にこぎつけた。これには日曜休市に「絶対ダメ!イヤ!許さないわ!」と強硬だった東京魚商業協同組合塩澤達三「銀鱗会」の幹部が根気良く説得したのが功を奏したと伝えられている。
 平成の御代になると、日曜祝日休市の他に毎月2回の臨時休市が設けられるようになった。 当時はバブル期で深刻な求人難に対応したものだったが、その後の不景気によって、手のひらを返したように「休みを減らそう!」というのが現在の状態。

きんとん【金団】
 明治の文豪尾崎紅葉と魚河岸。全く無関係に見える両者は、実は「きんとん」によって結びついている。まだ有名になる前の紅葉は「きんとん」を腹一杯喰うのが何よりの望みだったという。「きんとん」なんて料理の膳に添えてあって、酒飲みなら箸もつけないものだ。後に「洋服を来た江戸文学者」とまで呼ばれた渋好みの紅葉だが、若い頃は結構甘ちゃんだったわけだ。
 ある日、原稿が売れて少しばかりの金が入ったので、かれは日頃の思いを果たすためにふところ手で魚河岸に向かった。というのもそこには「よせもの屋」という、いつも「きんとん」を売っていて、しかも安い店がある、とネットで検索したからである。そして、ついにゲットした「きんとん」を前に紅葉は涙がにじんでくるのを禁じえなかった。彼はそれをひと匙すくい口に運ぶと、しかし、もうイヤになってしまった。
 「オレの夢とはこんなものだったか」
ポッテリした甘さに失望した紅葉は、以後甘さから脱却し辛口文学に身を投じていくこととなる。魚河岸の「きんとん」は結果として明治文壇に金字塔を打ち立てる立役者となったのだ。

ぎんりんかい【銀鱗会】(築)《=魚市場銀鱗会》
 昭和26年、有志により発足した銀鱗会は、魚市場の文化団体として、市場人相互の親睦や業界にとらわれない自由な意見交換の場として活発な活動を行ってきた。会報誌「銀鱗」を通じ市場の様々な問題を論議し、とりわけ市場の「日曜休市」を実現したことは特筆に価する。昭和36年には事務所内に「銀鱗文庫」を創設、蔵書の一般貸出を実施して市場の文化的向上にひと役かった。


<け>

げいしゃのあたま【芸者の頭】
 ヒマの意。
 芸者さんの髪型にひっかけて、「島田」→「しまだ」→「ヒマだ」。
 江戸っ子は「ひ」と「し」が区別できなかったので、「ああ、シマだねえ。芸者の頭だ」となった。


げんばくまぐろ【原爆マグロ】
(築)
 昭和29年3月、市場は突然振ってわいた「原爆マグロ」事件によって騒然となった。
焼津港所属のマグロ漁船第五福竜丸99トンが南太平洋マーシャル群島のビキニ環礁で原爆実験の死の灰を浴び乗組員23名が被爆してしまう。
 この時第五福竜丸が漁獲した、メバチ、キハダ、ヨシキリザメなど約542貫が築地に入荷した。すぐに焼津の荷主が出荷したマグロが危険だという連絡が入り、セリは中止、荷は隔離して科学研究所に依頼し放射能を測定したところ明らかに異常値が検出された。
 そこでこのマグロを市場内の空地に深さ30メートルの穴を掘って埋める一方、卸売場を大洗浄した。 結局4日目に市場は正常に営業再開となるが、マグロ相場は大暴落し、マグロ以外の鮮魚もガタガタであったという。
平成9年、地下鉄工事のために市場正門が掘られた。その場所はかつて「原爆マグロ」を埋めたところであり、もしかしたら骨のひとつも出てくるのではないかと報道陣まで押しかけ、みんな固唾を飲んで待ったが、結局何も出土しなかった。
場所が少しずれていたのか、それとも土中で完全に分解されてしまったのか。


<こ>

こあげ【小揚】
 日本橋魚河岸時代には、荷物を問屋に差配するものを河岸揚げと呼び、運搬する者たちを小揚といった。現在は卸会社の下でセリ場に魚を並べる差配や荷役をしている。→軽子

こうせついちば【公設市場】
 大正時代には簡易食堂、託児所、職業紹介所など、多くの社会施設がつくられたが、なかでも米騒動をはじめとする物価高騰に対処するために開設された公設市場は、それら社会事業の先鞭をつけるものであった。
大正7年に大阪に4ヶ所の公設市場がつくられ、一般商店より平均2割安く品物を供給したために物価高に悩む庶民の人気を集め、連日開場前から押し寄せる盛況ぶりだった。
 これを受けて東京にも公設市場設置の声は高まっていたが、業者の猛反対などによりなかなか実現されずにいた。
しかし、生活必需品を円滑に配給し物価の安定を促すための社会事業確立の気運は、やがて大正11年に東京市会に提出されて採決された「中央市場設置に関する建議」に発展し、のちの中央卸売市場へとつながっていく。
現在の中央卸売市場の理念は、80年前の公設市場に見ることができるのである。

こうちゅう【講中】
 商売繁盛ために神仏に祈願する人々が団体をつくり毎年何回か参詣をする。遠いところへは泊まりがけで出かけて行く。これを講中といって魚河岸では非常に盛んである。独特の「魚可し」という流し文字も参詣の千社札や奉納品を通じてひろまったが、中でも有名なのが浅草観音の御堂にある大提灯で白地に赤く塗り込んだ実に壮観なものである。
 そのような魚河岸の奉納品は各地の寺社にとても多く見られ、魚河岸の信仰熱心さがうかがえる。魚河岸の講中で代表的なものは成田山新勝寺川崎大師魚河岸講小田原大雄山道了尊羽田穴森神社豊川稲荷浅草金龍山などである。
 さて、泊りがけの講中は信仰であると共に、魚河岸の人たちにとっては旅行をかねた娯楽行事であり、夜になると部屋でこっそり賭事に興じる者も多かった。賭事は花札やサイコロが多く、「一点賭け」「チンチロリン」「丁半」「キツネ」「テンサイ」「バッタまき」「チーハー」「オイチョ」「コイコイ」などいろいろ流行った。

ごご【午後】
 生き馬の目を抜く市場の混雑もお昼を過ぎると消えて、すっかり牧歌的な情景へと変わる。
午後2時の場内は人間より鳥の方が多い。数えきれない程のかもめがエサを求めてやって来る。さながらヒッチコックの映画「鳥」のようだ。
 そのほか午後の市場内で散見するものは、碁に興じる人々、酒を飲む人、妙に肥えた猫、何だか自分の家族について延々と話す人、散水車、どことなく不審な人、理由なく脱ぐ人、石のように固まっている人などである。

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<さ>

ざこば【雑魚場】(日)
 家康江戸入府(1590)以前から日比谷村に住んでいた漁師たちが江戸まちづくりの埋め立てによって芝海岸に移りそこで魚を商ったが、魚市としては日本橋より古い。
当初、山の手を通っていた東海道が品川・芝に移ってきたのに伴って繁盛した。のちに本芝と芝金杉に魚問屋がつくられ日本橋の四組問屋に編入されて七組魚問屋となり、以後、かれらは江戸の漁商を独占していく。
 本芝魚問屋は横新町に、芝金杉魚問屋は赤羽根に「御用魚撰立残魚売捌場」という売場を設けて上納の残りの雑魚を扱ったので俗に雑魚場と呼ばれた。
 日本橋魚河岸と比べて魚種も物量も乏しいが、「芝肴」と江戸っ子によろこばれた。


<し>

しおまちぢゃや【潮待茶屋】
 仲卸から買った荷を各地に発送するところを茶屋と呼ぶ。
 現在の築地市場のカーブを描く卸売場と垂直に伸びているプラットホーム状の施設が茶屋で、「淀橋」「池袋」「板橋」などと地域名が書かれた札がたくさんかかっていて、軽子さんなどが発送先によってそれぞれの場所に荷を運んでくる。
日本橋魚河岸時代、河岸という名の通り、荷の多くは水運を利用した。日本橋川は水深が浅く、引き潮になると川底が見えて船の通行ができなくなった。そのため川べりに設置された発送所では、舟への荷の積下ろしにできる上げ潮になるのを、人々が茶など飲みながら待ったというのが「茶屋」「潮待茶屋」の語源になっている。

しけがし【しけ河岸】
 魚河岸が終う頃のこと。

シマ【窟】
 魚河岸は“シマ”とか“別世界”とか“伏魔殿”などといわれ世間と隔絶された特殊な空間とされてきた。社会常識とは一線を画する河岸ならではの常識がまかり通っていて、一般人は面食らう。
昭和26年12月10日付の読売新聞を見ると「築地のシマ」と題して、新東宝の映画「魚河岸帝国」ロケ中に遭遇した市場の奇行が半ば興味本位で書かれている。
 「映画の主人公は作中、魚河岸の世界で必死に生きていくが、我々ロケ班も同じように必死であった。何だオメエらはとジロジロ見る。俳優を驚かす。ボヤボヤしているビンが飛んでくる。そして突然走り込んでくる裸男にギョッとする。若い軽子が寒中にも関わらず裸でいるのは威勢が良いというのを通り越して痛々しいくらいだ」
さすがに50年近く前の記事だけに現在ではこんなにひどくはない。とはいえ、中央区隅田川沿いのこの区画には、いまだに外の世間とは違うという雰囲気がある。ガサツとかガンコ者とか古風とか、市場の人々は決して胸を張って威張れる類のものではないが、一方で大変に人情味の持ち主であるの事実だ。弱いものにはやさしいし、気風も良い。何よりかれらの挙動はじつに人間臭くて魅力的だ。
 それは市場が“シマ”であることと無関係ではない。もしも市場が本当に“シマ”社会から脱却し、一般社会と変わるところがなくなったなら、この小さな世界の中で育くまれてきた、やけに人間味にあふれた変な人々はあっというまに姿を消すだろう。
 かれらこそ、かつて存在していた前時代の日本人そのものではないだろうか。

しょんべん【ションベン】
 キャンセルの意。
 「ションベンする」《動詞》
 キャンセルする。とりやめる。
 「悪い悪い、今のは――させてくれ」
 「おい、アニキそれはねえだろうよ」

  類語:ヨシコチャン【よし子ちゃん】
 「ああ、そんなのダメダメ、――だ」
 やめた方がいい。

じんたんとう【仁丹塔】(日)
 森下仁丹は宣伝が非常にうまく、戦前には、国内はもとより満州から華北、華中までも仁丹の看板がぶら下がっていたという。
 記憶に新しいところでは浅草田原町にあった「仁丹塔」がなつかしい。関東大震災で折れた十二階凌雲閣を模した巨大な広告塔は建設当時多くの人々を瞠目させ、浅草のシンボルとして長く親しまれた。林海象の映画「夢見るように眠りたい」でも印象的に登場する。老朽化のため惜しまれつつ、昭和62年に撤去された。
 さて、かつて日本橋魚河岸にも「仁丹塔」があった。
日本橋ぎわ本船町の入口に「ヒゲの海軍大将」のイルミネーションが点いたり消えたりしていた。まだネオンサインなどない明治末年、カラフルな仁丹の広告は、青い目の瓦斯燈と共に魚河岸の夕暮を幻想的に彩っていたという。

しんとみちょう【新富町】(築)
 かつて花柳界や芝居町だったところで、築地界隈では何かと華やかな印象を受ける土地だ。
 江戸時代にはこのあたり武家地であり、本多隠岐守堀長門守の上屋敷、井伊掃部頭の蔵屋敷があった。明治元年に上地になって、ここに新島原という遊女街が置かれ、八重咲町、梅ヶ枝町、呉竹町、青柳町、初音町、花園町、桜木町、千歳町、松ヶ枝町の名で呼ばれた。明治4年に遊女街は吉原に合流されて、翌5年には新富町と名づけられて町屋となった。新というのは、ほかに大富町があったためである。
 当時、浅草裏田圃の猿若町にあった守田座がこの遊郭跡に移ってきて新富座と名前を変えて日本一の劇場として栄えた。今の人が歌舞伎座「こびきちょう」と呼ぶように、当時の人はこの新富座「しまばら」といったという。
その頃は俳優も町内に多く住んでおり、初代左団次は二丁目に、五代目菊五郎は七丁目に居住していた。


<す>

すいじんさい【水神祭】
 魚河岸を開いた森孫右衛門の一族が自分たちを江戸へ呼んでくれた徳川家の武運長久と大漁安全を祈願し「水神社」神田明神境内に奉って以来、魚河岸の守護神として崇められてきた。
 この魚河岸の水神祭といえば派手で威勢が良いことで東京でも有名だった。
 大正9年の大祭は日本橋魚河岸時代の最後のものであったが、その規模は明治以降最大のものだった。壮麗な山車が練り歩き、曳物や積物の数を尽くした見事な繁昌ぶり、中でも大善の巨大な鮪の山車は後世の語り草となった。
築地市場に移ってからは昭和30年の大祭が最大規模で、休市日と日曜日をはさんで4日間にわたって執り行われ、魚食普及の「さかなまつり」を兼ねていたこともあって、数千枚のポスターをつくり、20万個の風船を配布するなど、対外的にも派手なデモンストレーションを展開した。
 中でも能の「加茂」を模した山車をクライマックスに地走り囃子太鼓等の総勢千数百名にも及ぶ行列は往年の魚河岸の勢いに匹敵する心意気を天下に示した。この時の祭礼委員長であった田口達三が「こんな大きな祭が果たして再び出来るだろうか」と述べたが、実際このような大規模なものはその後は行われていない。
 しかし現在でも数年に一度執り行われる大祭では、老いも若きも集って、市場をあげての大騒ぎとなる。 やはり市場人は祭が大好きなのだ

<せ>

せきのまじない【咳のまじない】(築)
 江戸時代に、西本願寺の川向こう、稲葉対馬守の中屋敷には、咳の病を治す爺嫗(じじばば)の石像があって、咳に悩む参詣者でいつも賑わっていた。長年病気にかかっていた者が、お参りしたとたんに直った、これは霊験あらたかだということで、江戸中の評判になっていた。
 石像は、まず屋敷を入って左の所に石の宝殿に鎮座する嫗さまの像があり、そこから10メートルほど奥に入った所に爺さまの像があった。なぜ二人を別々にしておくかというと、この爺嫗はどういうわけか仲が悪く、一緒にすると喧嘩をしてしまうのだという。
 嫗さまは綿帽子を被り、両手を袖の中に入れてうずくまる恰好をして、とても柔和な表情をしている。一方爺さまの方は、やはり綿帽子を被ってうずくまっているのだが、こちらはとても恐い顔をしていたそうだ。
参詣者はまず嫗さまの方に願をかけて、もしも直らなければ、爺さまの方になにとぞとお参りしたという。そして、めでたく病が直った時には、米と豆と餅あられの煎じ物をお供えしたと伝えられている。
嫗さまは市場内、現在の水神様の裏手あたり、爺さまは洋食店「豊ちゃん」のあたりにあったと想像できるが今はそこにはない。
 明治の頃に築地から向島の弘福寺に移され、現在も安置されている。

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<た>

ターレ(築)《俗称=ターレット》
 市場内で荷物の搬送などに使われる360度転回が可能な小型の三輪運搬車。
 正式にはターレットというのが製品名である。
 最近では無公害な電動車「キャリスター」というのも登場し主流になりつつあるが、長年の習慣から「電動ターレ」などと呼ばれている。
 昼食時に市場の飲食店にやってくる外の勤め人たちには市場でしか見ない珍しい乗り物であり、「マジ乗ってみたいーっ!」などというOLも多く、よく若い衆が乗せてやって喜ばれたりしている。

たいへんだ【大変だ】
《慣用句》
 河岸で何かというと使われる言葉。
 しかし本当に大変なことだったためしはない。
 事件好きで噂好な市場人は、毎日河岸で起こる小さな“事件”をさも大事件のように騒ぎ立てる。
 「大変だぁ〜、包丁で腕落としたそうだ」
 「大変だよ〜、人が轢かれて瀕死の重傷だってさ」
 「大変だよ〜ん、○○の店は丸焼け3,4人焼け死んだぴょ〜ん!!」
 実際には包丁で切ったのは指先だったり、買出人が小車に足踏まれただけだったり、どこかの店のストーブで焼きイモ焼いてて、3,4本真っ黒こげになったとかいうオチになるわけだが、
とにかく「大変だぁ〜!!」と、とりあえず大騒ぎのほんの数分後には何が大変だったのかすら覚えているものはいない。
 一種のレクリエーション(死語)であろう。

 

<つ>
つれていく【連れていく】《慣用句》
河岸でお客が魚を買っていくこと。
「良いタイですぜ。ひとつ連れてってくださいよ」
 


<て>

てぐりもの【手繰物】
 網を使って漁獲する魚を指し、サメグチが代表だがコハダなども含まれる。シナ海あたりの遠洋漁業の魚で、中華料理の食材に供されるものが多い。

でぶろく【デブロク】
 大きさがまちまち。大小とり混ぜたさま。
 「イワシ1ケース買えったって、デブロクじゃねえか」

てやり【手〈遣〉】
 (主にマグロなどの)セリで取引金額を示すのに使われる手信号。仲買側は無言で手を挙げ希望額を卸売人に提示する。その際、片手で示すため手遣は普通の数の示し方とは変わった指のかたちをする。また、25、48、76といった2つの数字の組み合わせには瞬時に2回結んで開いてを繰り返して表す。迅速な判断と公正さが要求される市場ならではの修練のたまものといえる取引法。

てんぽいどう【店舗移動】(築)
 築地市場の卸売場は巨大な扇形になっている。
 昭和10年開場時の鉄道輸送を前提とした設計によるものであるが、現在のようにトラック輸送が中心となり、線路も廃止されてしまうと、これがむしろ弊害となっている。
 各店舗の売場面積の格差である。もしも売場が方形をしていれば、均等にコマ割りすれば良いのだが、扇形の売場に通路を設けて区画するということになると、内周と外周では3〜4割もの面積の差を生じるのだ。
このため築地市場の仲卸は数年にいちど全店舗の配置替えを行う。1000店からの仲卸業者が全員くじ引きをして、一斉に引越しを行うのだから大変な騒ぎとなる。
 市場を休場さないために土曜日の営業が終わってから翌日の日曜日を経て翌々日の月曜の夜明けまで足かけ3日間、夜を徹して行う大移動は、店主、従業員、その家族、大工、電気屋、看板屋、配管工、運送屋、仕出屋、都職員などが入り乱れ、狂乱と阿鼻叫喚のうちに繰り広げられる。
 この大引越しで費されるお金はざっと見積もっても2億円。無駄といえばこんな無駄なものはない。これが見直されることなく、ずっと行われてきた。今では店舗移動こそ魚河岸の底力と勢いを見せつける数少ない場かもしれない。


<と>

とけいだい【時計台】(築)
 築地市場内の東京都の建物に突端に時計台が敷設されていた。老朽化のため取り外されて久しいが、今もそのなごりに前の道路に「時計台通り」の名が残っている。
 昔から東京都の屋上からこの時計台をバックに記念写真を撮ることが多く、昭和14年に上海や奉天の市長が来場した時もヒットラーユーゲントが来場した時も近衛文麿が視察に来た時も、この時計台を背景に同じアングルで「はいチーズ」と写した微笑ましい写真が残っている。

とでん【都電】(築)
 戦後間もない頃には築地市場を始点にして、都内各地に路線が延びていた。都電といっても普通の路面電車の形ではなく、前後に簡易な運転席がしつらえてあるだけのまさに青空電車で、人を運ぶというより、物資輸送を目的としたものだった。
 戦前から戦後しばらくは統制経済で市場の商品も全て配給の対象であり、配給機関が品物を分荷して、都内の各支部に送るというのがそのころの市場の仕事だったため、その際勝鬨から三原橋方向へ延びている都電にアクセスし、これを利用して各地に荷物を運ぶための市場用の都電が用意されたのである。
現在の仲卸店舗とセリ場の間の通路を貨物線と並行する形で市場通りへ延び、晴海通りを左折し、銀座から神田や新宿まで通じていた。
 この青空電車には荷物の他にも人間が便乗することもあったといい、その頃、東京都の管理課にいらした松田さんは、河岸引けによくこの青空都電に乗って新宿の自宅まで帰った。「雨が降ったら? 別にそんなの気にしなかったねえ。傘をさした覚えもないし」 と当時を振り返る。

とめもん【留めもん】
 @その日のうちに売り切れず残ってしまった魚
 Aスーパーの特売などで、魚の数をそろえるためにストックする魚
 魚によってその日に留められるものと、そうでないものがあり、それを見越した上で、買出人と仲卸とが値段の駆け引きを行ったりする。

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<な>

なみよけじんじゃ【波除神社】(築)
 万治年間(1658〜60)、埋め立て工事が荒浪のために思うように進まない時に、浪間に流れてきた御神体を祠ったところ、それからは浪も静まって工事がはかどったと言われ、以来、築地一円の氏神となっている。(明治5年・東京府志料)
 明治の浮世絵師、鏑木清方の随筆「築地界隈」に「明石町の外国人居留地と、当時唯一のモダーン街銀座とに挟まれた、築地と木挽町とは常に何ものか清新な気流が感ぜられるような気がしたが、同じ築地でも備前橋を越した南小田原町は、向築地(むこうつきじ)といって気の荒い漁師町で、鎮守波除稲荷の祭礼にここの獅子が出ると血を見ねば納まらないといわれた」とある。
 気の荒い土地柄は現在の市場の喧燥に受け継がれているようで、波除神社もまた築地市場内と場外を結ぶ「海幸橋」のたもとに、今も変わることなく時の流れを見守り続けている。

<に>

にほんばしうおいちばえんかくきよう【日本橋魚市場沿革紀要】(日)
 川合新之助著 明治22年発行 上・中・下3巻本
「日本橋組魚問屋ノ濫觴ノ大略ヲ挙グレバ、其昔天正十八年徳川氏開国ノ際摂州西成郡佃村名主森孫右衛門始メテ佃村大和田村両村ノ漁夫三十余名ヲ率イテ此地ニ来リ、各所 ノ河海ニ於テ漁業ヲ営マン事ヲ請シニ許サレ、而シテ日々其獲ル所ノ魚類ハ幕府ノ膳所ニ供シ、其残余ヲ市街ニ販売セシガ…」
 こうした出だしで始まる「紀要」は、日本橋魚河岸の沿革を細かく記したもので、市場研究者の基本史料となっており、魚河岸に関する著作、論文は必ずこの本を基としている。
 内容は幕府への書上や公的文書が中心となっている。

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<は>

はぐれマグロ【逸〉れ鮪】
 群れから離れて単独で泳ぐ孤独なマグロ。マグロは必ず集団で回遊する習性があり、常に周囲の同類数を気にして泳いでいる。もしも集団数が極端に減ってしまうとマグロたちはストレスで全員が駄目になる。そして、何らかの理由で仲間からはぐれてしまったマグロは、ストレス性胃潰瘍を起こしてすぐ死んでしまうのである。ところが、ひょんなことからこんなマグロが市場に上場することがある。肌のツヤも通常で肉質も悪くないが、味わってみるとひどく酸っぱい。ストレスによって血液中のPH値が急激に上昇してしまうためである。こんなマグロを買ってしまった仲買人は「こりゃ、はぐれマグロだ」と舌打ちすることになる。
 人間界でも、ことに日本人は集団性が強く、群れから離れるとやりにくいことが多いが、マグロ界ではもっと厳しいのである。

はこもの【箱物】
 箱に入れられて多量に入荷してくる大衆魚のこと。関西方面のアジがその代表なので、関西物ともいう。「――師」箱物を扱う魚屋。

ばさらもん【バサラ物】
 かろうじて商品となっているが、かなり質の落ちるもの。
  ――や【――屋】
  ――くみあい【――組合】
 バサラ専門の業者。安いものを大量に買って薄利多売をする。


<ひ>

ひきこみせん【引込線】(築)
 昭和10年に築地市場がつくられた時に、大量の陸送を見込んで、その頃の輸送の花形だった鉄道を市場内に引き込んだ。その際、長いプラットホームを確保するために、築地市場は現在のような大きなカーブをとることになった。このモダンな形こそ、世界に誇る中央市場の最新設計であった。
 貨物列車は汐留駅と築地市場を結び、おおよそ夜の10時頃から頻繁に入線し、翌朝まで魚と氷を満載した貨車が何十本も乗り入れ、毎日大騒ぎだった。市場駅にはちゃんと駅長もいて、踏切には信号手も立ったという。
隆盛を見た貨物も昭和30年代以降はトラック輸送に押されて次第に需要を減らしていき、昭和59年には完全に廃止となって、その姿を見ることはなくなった。
 扇形の建物を歩いていると、そこここに廃線の跡を確認することができる。マグロのセリ場をこえたところから、スロープ状にせり上がった売場が、かつてプラットホームだったところで、ここからずっと青果まで延びていき、青果門を越え、銀行脇の細い道にそって線路が続いた。現在でもそこには信号機が残っている。

<ふ>

ふうがいい【風が良い】
格好が良いこと。
魚に対して「風が良い」といえば、丸々と太ってうまそうだ、という意味。


ふちょう【符牒】

 市場では取引上便利なので数を示すのに符牒をつかうことが多い。
主なものを挙げよう。
(1) 鮮魚取引につかうもの
  1:イ
  2:口(クチ)
  3:キ
  4:ヨ
  5:カ
  6:ロ
  7:ヤ
  8:矢(ヤツ)
  9:へ
(2) 塩干物取引につかうもの
  1:丁(チョー)
  2:イ(ニンベン)
  3: △(ウロコ)
  4:井(イゲタ)
  5:ノ(ノラ)
  6:|(ボー)
  7:な
  8:は
  9:夕(ユー)
(3) 合い言葉になっているもの
  1・2・3・4・5・6・7・8・9 
  よ・ろ・し・か・る・べ・き・こ・と (宜しかるべき事)
  た・か・ら・ぶ・ね・い・り・こ・む (宝船入り込む)
  い・つ・ま・で・も・か・わ・ら・ず (いつまでも変わらず)
  あ・き・な・い・の・し・や・わ・せ (商いの幸せ)
  し・ろ・は・ま・の・あ・さ・ぎ・り (白浜の朝霧)
  あ・さ・お・き・ふ・く・の・か・み (朝起き福の神)
  み・よ・こ・け・の・む・す・ま・て (御代苔のむすまで)
  い・つ・も・さ・か・え・ま・す・吉 (いつも栄えます吉)
(4)その他特殊な言い回し
  0:マル
  1:ピン
  2:リャン又はノック
  3:ゲタ
  4:ダリ
  5:メノ字
  6:ロンジ
  7:セイナン
  8:バンド
  9:キワ
  11:ピンピン
  12:ソクブリ
  13:ソクキリ
  14:ソクダリ
  15:ソクガレン
  17:ソクセイナン
  18:ソクバン
  22:ノナラ
  25:ヤッコ又はオムツ又はアタマ

ぶんがくさくひんにみるうおがし【文学作品に見る魚河岸】
 市場を舞台にした文学作品は非常に多い。
 岡本綺堂の随筆「魚河岸の一年」は幕末の魚河岸を四季折々に活き活きと描写していて、歯切れの良い文章に惚れ惚れとする。特に問屋や仲買に限らず、棒手振りや小揚に至るまで魚河岸に働く人々を捉えているのは正に綺堂の真骨頂だ。
 岡本一平「どぜう地獄」では、画学生の主人公が日本橋の魚河岸を歩き回るシーンが出てくる。
「やい、鼻くた。買はねえか。いいさはらだ」
鼻のひしゃげた魚屋に売り子が歯に衣を着せない威勢の良い台詞をぽんぽんと投げかける。
「ひな(品)がひ(気)にひ(入)らねい」
「生意気言うねえ。鼻くたのくせに。小田原の近海ものだ。お前達に文句を言われる肴じ
ゃねい。三遍廻ってお辞儀をして頂いて置きや。損はねえぞ。やい、鼻くた」
 芝木好子「青果の市」は、戦時下の築地青果市場を舞台に、男勝りの女・八重のけなげに働く姿を描いた作品で、高い人気を得て芥川賞を受賞した。統制時代の市場の様子や現代にも連綿と続く市場の風情がこまやかな筆致で描かれていて感動的だ。
 森田誠吾「魚河岸ものがたり」でも市場が情感たっぷりに書かれている。この作品の舞台は70年代以降の築地市場で、そう遠い昔でないから、感情移入もしやすいかも。
 他にも田山花袋「東京の三十年」で魚河岸の雑踏と不潔と混雑の中で出られなくなって困った話や芥川龍之介小沢碧童らと河岸の洋食屋へ入ったが、江戸伝来の葦簾張でとても洋食を食べている雰囲気ではなかったという「魚河岸」など、気をつけて見ると市場が登場する文学作品は数知れない。


<ほ>

ぼてふり【棒手振り】(日)
 天秤棒でになって振売りする商人のこと。棒手箱(ぼてばこ)に入れて売り歩いたからという説もある。関西方面では天秤棒かつぎのことを棒手振りと呼んだが、江戸・東京では棒手振りといえば行商の魚屋を言った。類似のものに笊ふり(ざるふり)がある。

ぽんころ【ポンコロ】
 1本(尾)で売買すること。
 「こいつ――でいくらだい?」
 実際には河岸ではケース売りや目方売りが普通で、 ポンコロで売られるのはトビウオくらいである。

ほんおだわらちょう【本小田原町】《地名》(日)
 魚河岸の創始者といわれる森孫右衛門の長男九右衛門らが住み、魚の売場を開いたところ。江戸初期には魚河岸の中心地であったが、後に取扱量が増えてくると、水運に便が良く、請下(仲買)の多く集まる本船町に魚屋が集中する。
 町名の由来は、江戸普請の際、小田原の石工がこの地を石揚場としたことから小田原町の名がついたが、のちに石揚場が築地に移ったため、ここを本小田原町というようになったといわれるが、異説もある。

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<ま>          

まぐろまん【マグロマン】(築)
 平成11年の『市場まつり』のときにマグロ販促用につくられたキャラクター。ポスターなどもつくられたが、その異常なデザインからか、まったく受けなかった。

まんじゅうや【マンジュウ屋】(築)
 タバコや菓子、牛乳などを扱う売店。築地市場内に数ヶ所設置されている。「キヨスク」みたいなもので、甘いものが置いてあるので、こう呼ばれる。配達員や若い衆らの憩いの場所になっている。


<み>

みずがしや【水菓子屋】(日)
 日本橋魚河岸に出入りしていた果物やタバコの行商人の総称。
 かれらは天秤棒に荷をのせて河岸に来て、お得意の問屋が「おう、ここ空いたヨ」と声をかけてくれた店の隅っこを間借りして露店を開き、通行人相手に商売をした。
 魚問屋の中には忙しいときに水菓子屋を見かけると「何個置いてけ」といって荷を置かせて、河岸引けに代金を取りに来るとちゃんと個数を覚えていて、お金を渡すという店もあった。


<も>

もりいちぞく【森一族】
 魚河岸の祖である森孫右衛門の一族は、もとは大坂の水軍といわれ、家康の「伊賀越えの難」のときに救出を手助けした功により江戸湊での漁業権を授かり、佃島に移り住んで御前の肴を納めることとなった。その際に残余の魚類を販売したのが魚河岸の起こりといわれている。 すなわち「日本橋魚市場沿革紀要」孫右衛門の長男九衛門が魚の市販を許され、慶長7年(1602)に日本橋本小田原町に肴売場を開設したとあるのが魚河岸の始まりとされる。

もりかざん【森火山】《人名》
 本名森薫三郎。明治13年9月9日生。
 魚河岸西長に働くかたわら、独学で画を学び俳画、南画、肖像画法などを画く。
 若い頃、日露戦争戦没者の肖像画を無料で画いて遺族より感謝されたという。
政治漫画に興味を持ち、黒岩涙香主幹の「万朝報」「品川変人」のペンネームで寄稿するようになり、その新鮮なアイデアを買われ、政治漫画記者として毎夕新聞社、時事新報社に迎えられる。
大正10年に設立した「東京漫画会」の同人として岡本一平渡辺均などと活躍し、晩年は生地である日本橋魚河岸研究と第二の故郷品川郷土史に専心した。
 代表作に「肉筆漫画建国二千五百年史図絵」「今昔の魚河岸」「関東大震災絵巻」がある。 特に魚河岸を描いたものは、情感豊かな画趣と共に史料的価値も高く、魚河岸研究には欠くことのできないものである。このうち「魚河岸研究」全6巻中の挿し絵をまとめたものが「日本橋魚河岸」と題して東京魚市場卸協同組合より昭和52年に刊行されている。
戦時下の昭和19年10月14日脳溢血のため急逝した。享年65歳。

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<や>

やつはしんだ【奴は死んだ】《慣用句》
 河岸では3、4日顔を見せないと、すぐに死んだことにされてしまう。
 本人はちょとカゼをひいただけなのだが、「どうもガンだったらしい」とか「脳卒中だぜ」とか「売れねえで首くくったそうだよ」などと死因まで勝手に決めつけたりする上、
「オレはきのう葬式に行ってきた」などとまことしやかに言い出す輩まで出てくる。
冗談で言っているのではない。誰もが本当に死んだと思い込んでいるのだ。
それで、本人がひょっこり河岸に出てくると、みんな別段驚きもせず、何事もなかったかのように元通りの付き合いをする。本人もうわさに怒るわけでもなく、別の誰かが河岸を休んだりすると、「奴は死んだぜ」などと今度は自分が率先してうわさを流したりする。
河岸というのは実に世間の狭い所ではある。


<よ>
よぶ【呼ぶ】《慣用句》
魚を仕入れること。
「宮古からあなたのために呼んだマグロですよ。連れていって(買っていって)くださいよ」

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<ら>

ランドリー(築)
 終戦直後、日本に進駐したアメリカ軍は各地の建物などを接収したが、築地市場のかなりな部分も御多分に漏れずにアメリカ軍の駐屯地となった。
現在の厚生会館のあたりがそっくり接収されて、かなりの数のアメリカ兵が駐留し、そしてかれらが洗濯するためのランドリー場が、青果門から水産卸売場の一部までというから、相当な広さでつくられた。
都民の台所にアメリカの洗濯場があったという話。

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<わ>

わかいし【若い衆】
 「今若い衆に行かせるからよ」と言われて待っていると、とんでもないおぢさんがやって来る。「若い衆さんで?」と訊くと「へえ、そうです」と答える。河岸では50歳くらいまで「若い衆」で通る。何しろ日本橋時代から河岸にいて、90歳を過ぎても現役だよなんて人もいるし、そんな人から見れば確かに「若い衆」に違いない。

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