魚河岸の創始者 森一族



 天正十八年(1590年)、徳川家康が江戸入りしました。この時、家康に従うように摂津国西成郡佃村(現在の大阪市淀川区佃町)の名主森孫右衛門が、佃及び隣村大和田村の漁師三十四名と共に江戸に出てきて、江戸向島(のちに佃島と名づけられます)を拝領するとともに、江戸近辺の海川の漁業権を与えられ、そのかわりに徳川家の御膳魚を納める役を仰せつかりました。そして、その後、納魚の余りを日本橋小田原河岸で販売したという、これが魚河岸のはじまりであり、森孫右衛門ら一族がその始祖といわれています。
 魚河岸の歴史的史料を伝える『日本橋魚市場沿革紀要』(以下『紀要』と略す)には、森一族が江戸に渡るに至った経緯が、くわしく記されておりますので、要約してみましょう。


  「天正年中(1573〜1593年)、家康公が上洛された折、住吉神社に参拝された。そのとき川を渡るのに渡し舟がなく難儀したが、安藤対馬守が佃村名主の孫右衛門に命じて、かれの支配の漁船で無事に川を渡ることができた。その際に孫右衛門の家に立ち寄りご休息なされたので、孫右衛門は古来より所持していた「開運石」を御覧に入れたところ、家康公は"この神石を所有することは開運の吉祥なり"と喜んで賞美し、差し上げた白湯を召し上がった。そして、屋敷内の大木の松三本を御覧になって、"木を三本合わせれば森となる。今後は森孫右衛門と名乗るがよかろう"と仰せになるので、ありがたくたまわった。
 その後、慶長四年(1599年)に家康公が伏見在城の際には御膳魚の調達につとめ、徳川軍が瀬戸内海や西国の海路を隠密に通行するときは命令があり、孫右衛門の漁船でとどこおりなく通行させるなどの手助けをしていたが、とくに慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣、及び翌元和元年の同夏の陣では、付近の海上を偵察し、軍船を漁船に仕立てて毎日本陣へと報告した。
 この褒美として、佃村、大和田村の漁民に大阪城の焼け米を大量に下され、大坂表町屋敷地一万坪あまりを拝領される。しかし、この土地には持主があったため、両村の漁民らは困って、その旨を申し上げると"それはもっともなこと"となり、"何でも良いから他のことを願い出よ"とおっしゃるので、孫右衛門並びに漁民らは"江戸に出て末永く家康公にお仕えしとうございます"と申し出た」


 渡し舟、開運石、三本の松などのくだりは、いかにも伝説めいていて、あるいは後世にできあがったお話かもしれません。それに、森一族がどのような者であったかについて明らかにはされていないのですが、ただ、文中には何らかの軍事的な役割を果たしていることが示唆されています。そこには海上偵察とのみ記されていますが、広く江戸湾の漁業権を与えられるほどですから、戦国の世に徳川家と何らかの深いつながりがあったのでは、とも推測されてくるのです。
 そこで、森一族=海賊説というのが出てきます。
 『魚河岸百年』(以下『百年』と略す)では、かれらの起源を家康と結びつきの強かった海賊の一党ではなかったかとしています。
海賊、すなわち当時瀬戸内海から西国の沿岸にかけて、強大な勢力をもった武装船団をもつかれらは、戦国大名と結びつき、武力を行使して海上交通、貿易を牛耳っていました。森一族はまさにその一党ではないかというのです。確かにそう考えれば家康のかれらに対する厚遇も理解できる気がします。ですが、その真偽を明らかにすることはできません。ここでは史料のとおり、魚河岸の創始者である森一族は西国からやってきた漁民だったとのみ確認しておきたいと思います。
 江戸に出てきた一族のうち、孫右衛門の長男である森九右衛門が将軍家への納魚をつとめるかたわら魚を販売し、これが魚河岸のはじまりとなります。そして、他の者は江戸湾で漁業を営みながら、海上の様子を幕府に報告する役目につきました。かれらは、後に佃島に住み、漁業に専念するようになります。



〜〜〜魚河岸ミステリー その1〜〜〜
〜〜〜森孫右衛門は二人いた? 〜〜〜

 魚河岸の創始者とされる森孫右衛門について調べてみると、ある不思議な記述に行きあたります。かれの生没年についての謎です。築地本願寺に残っている墓碑には、寛文二年
(1662年)没とあり、故郷の摂津佃村で九十四歳の長寿をまっとうしたことになっています。そこから逆算すれば、孫右衛門は永禄十二年(1569年)の生まれ。すると家康が多田の住吉神社へ参詣し、そこではじめて孫右衛門と会ったとされる天正十年(1582年)の時点では、かれはわずか十四歳にしかなってないことになります。いくらなんでも家康に謁見するには若すぎるようです。一方、『紀要』の家康との出会いを三十五歳とする方をとるなら、寛文二年には実に百十五歳となり、これもなかなか考えにくいことになります。
 この疑問について『日本橋魚市場の歴史』(以下『歴史』と略す)では、実は二人の森孫右衛門が存在したと推理しています。二人は父子で、天正十年に家康に会ったのは父孫右衛門の方。おそらく当時三十五歳前後で、子はまだ幼名でした。その後、江戸に渡った孫右衛門は子の方であったとしています。孫右衛門は庄屋としての名を世襲しますので、こうしたことは珍しくはありません。
 その仮説を裏付けるものとして、小田原町に店を開いたとされる孫右衛門の子九右衛門が、『紀要』では孫右衛門二男九右衛門と説明されたり、孫右衛門の長男なりという記述があったりと混同しているほか、別の書に弟九右衛門とする記述もあり、はなはだ矛盾するのですが、もしも父子孫右衛門が存在したなら、九右衛門は父孫右衛門からみれば二男であり、子の孫右衛門にとっては弟なので、すっきりと説明することができます。また、後年父子孫右衛門が一人の存在と解釈されるようになると、必然として九右衛門は長男、ということになり、ここに長男、二男、弟とそれぞれの記録が残るようになったのではないかと思われるのです。
 いずれにしろ、その正体は海賊なのでは、といわれる森一族は、多くの謎につつまれた存在であり、そのぼやけた実像の向こうから魚河岸が生まれてきたのですから、実にミステリアスです。
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