江戸の市街づくりと魚河岸のはじまり



 では、魚河岸のはじまりが何年のことかというと、はっきりとは断定できないものがあります。家康が江戸入りした当時、そこは東国の小都市、というよりも一寒村に過ぎないというありさまで、中世に大田道灌によって一時にぎわった城下町もすでにさびれ、荒廃した道灌居城の下には、数えるほどの漁村が点在するだけのまさに「空より広き武蔵野」が広がっているばかりでした。日本橋はもちろん掘割もなく、魚河岸の登場は、家康による江戸市街の建設が行われるまで待たねばならないわけです。
 初期の江戸づくりは、後に世界一の大都市にまで発展するその基礎となるものですから、ここで簡単に追ってみましょう。

 家康入国が天正十八年(1590年)八月一日。
 当時の江戸の地形は、現在の桜田、日比谷のあたりまで海に面していて、神田川は雑司ヶ谷と池袋と市ヶ谷の各方面からの流れが合流して大きな池をつくり、現在の溜池は、そのころは本当に大きな池で、赤坂一帯を水びたしにして、そこから桜田と日比谷を分断するように流れ込んでおりました。神田川と溜池からの流れの合流するところには大田道灌の居城があり、後にここに江戸城が築かれます。ここから海へとそそぐ川を平川と呼び、中世の昔より、この川のほとりには「四日市」の名で、四のつく日ごとに市がたち、商売の船などが行き来しては、諸国の名産が売買されていましたから、ここだけが唯一にぎやかな場所でした。北東に目を向けると、不忍池と思われるものは、現在の数倍の大きさがあり、さらに千束池と思われるものが、下谷から浅草の裏手まで広がっています。また、隅田川は石浜から浅草と牛島の間を抜けて湾にそそぎ、その川幅も広く、河口は大きく広がっておりました。その頃の江戸は川や池が深く入りくみ、陸地も湿地が多く葦が茂る原野。たとえば四谷は、そのころ四ツ家ヶ原といって、人家は梅屋、木屋、茶屋、布屋の四軒だけというくらいの寂しい土地だったのですから、今では想像もできないことです。
 

 家康がまず行ったのが江戸城の整備。といっても本格的なものでなく、居城の体裁を整える程度のものだったでしょう。このときには野武士のような強盗があらわれて悩まされたといいます。それから飲料水の確保のため、家臣の大久保忠行に命じて水源を調べさせます。忠行はさっそく井の頭の水源を見つけてきます。これがのちの井の頭上水で、工事を指揮した忠行には主水の名が与えられました。水なので濁らず主水(もんと)と読みます。
 さて、唯一の商業地域であった平川辺に、堀が引かれ河岸地が出来て町屋が開かれます。この地に将軍の侍医である道三法眼が住んでいたので、この堀を道三掘(どうさんぼり)、この一帯を道三河岸(どうさんがし)と呼びました。

 家康江戸入りの八年後の慶長三年(1598年)、豊臣秀吉逝去。さらに五年(1600年)には関ヶ原の戦いに石田三成を破り、いよいよ家康の天下となりますが、そんな矢先の翌六年十一月、城下より出火した火災は、せっかくつくりはじめた江戸の町を一軒残らず焼いてしまいます。多くの死者も出し、手痛い打撃を受けた家康は、市中の草葺屋根が火災を大きくしたと判断、草葺を板葺屋根に変えること命じました。それで後の市街づくりは、より堅固なものになるのですが、災害のたびに発展するというのは、その後の江戸の特徴的なパターンともいえるでしょう。
 慶長八年(1603年)二月、家康は右大臣征夷大将軍に任ぜられ、名実共に天下人となりました。ここに江戸幕府が正式に発足。全国の大名に大号令を発し、一千石につき一人の役夫を差し出させる、いわゆる千石夫(せんごくふ)をかりだして、大規模な江戸市街の造営を開始します。
 膨大な人数と機動力によって、神田山を切り崩し、その土で日比谷の入江を埋め立て、そこに町屋をつくっていく。現在の日本橋も銀座もこのときに埋め立てられた土地です。
 翌九年には江戸城の本格普請。天守閣をいただき五層からなる壮麗な江戸城が築かれます。そうして、おおよそ寛永九年(1632年)までには、今の丸の内あたりに大名屋敷が整然と並び、日本橋から京橋にかけての城下町である下町ができあがる。江戸の基礎がすっかりと完成するのです。

 ここで魚河岸の成立年代ですが、先の『紀要』には、「慶長の頃に森九右衛門が、売場を日本橋本小田原に開設する」とあります。しかし、本小田原町は、慶長九年の江戸城普請の時に、小田原の石工善右衛門が親方となり、この地を石揚場として賜ったことから小田原町の名がつけられたのが、のちにこれが築地に移って南小田原町と唱えたため、こちらを本小田原町と呼ぶようになった。そういう場所と考えると、慶長九年の時点では、魚河岸は出来ていないことになります。
 また、日本橋の架設時期をみても、それを慶長十七年(1612年)としたり、もっと下って万治元年(1658年)とするなど、諸説さまざまですが、定説となっている慶長八年架設としても、やはりこの時期の本小田原町には、魚河岸は存在していないわけです。
 しかし、将軍への魚の献上は行われていて、実際に「紀要」に「慶長九年、若君(三代将軍家光)誕生のご祝儀として鮮鯛二百枚等を奉献し、金百七十五両、銀百五十枚を頂戴する」とあります。そこで、魚河岸が日本橋小田原町にできる以前にどこかで幕府への魚調達を行っていたと考えられます。その場所はおそらく当時、交易の中心にあった道三河岸でしょう。道三河岸は四日市のあったところに道三掘を通して海路への便利を得たことで、さらに活況をみることになり、慶長年間には、すでに数軒の遊女屋がつくられたという記録があります。江戸で始めての銭湯もここにつくられました。
 そうした繁華な場所であり、しかも城内への魚の調達の便も良かったので、そこに魚河岸の原型のようなものがつくられた。もっとも、魚河岸なんて名称もなかったでしょうし、ごく小規模なものだったでしょうから、後の魚河岸とは比較になりません。そこで、この段階を仮にプレ魚河岸としておきましょう。
 プレ魚河岸は、江戸の開発がはじまるとまもなく、道三堀にできます。森九右衛門らがここに魚店を開いたことでしょう。店といっても、あくまでも城中上納が主体でしたが、家臣や武士相手に多少の売買もしたのではないでしょうか。納魚は九右衛門だけでは次第に大きくなる江戸城の御膳を賄えなくなっていくことから、後に同族、あるいは同郷の者らが順次に店を開くことがあったかもしれません。また、道三河岸には古くからの魚店も多数あって、それらは主に塩干物でしたが、全体として、ばくぜんと魚市場の様相になっていたというのが、その状況だったと思われます。
 さて、繁盛していた道三河岸でしたが、江戸造営が本格化してくると、ここに各国大名の江戸屋敷がつくられることとなります。そこで、開けていた町屋でしたが、これがそっくりと新たに埋め立てられた日本橋方面に移転させられます。この整備が江戸をさらに発展させることになり、日本橋地区はメインストリートとして末永く繁盛していくのですが、さて、プレ魚河岸も、ちょうど本小田原町の石揚場が廃止されるのと入れ替わるかたちで、道三河岸から日本橋へと移って、やがてそこに正式な魚市場を形成するに至るとみると自然ではないでしょうか。
 道三堀の町屋の移転は、慶長十六年頃とされますので、この前後に日本橋魚河岸がはじまり、そして、江戸市街が発展をみる寛永年間に、その形態を整えていったものでしょう。



〜〜〜魚河岸ミステリー その2 〜〜〜
〜〜〜 魚河岸天正十八年成立説をめぐって 〜〜〜


 魚河岸の天正十八年成立にはどうも無理があることは、多くの研究者の指摘するところですが、では、なぜそのように記録されたか。その疑問について『歴史』では、魚河岸の権威づけのためではないかと述べています。
 そもそも魚河岸の成立は、『紀要』の冒頭「魚河岸ノ起源」の記載をもとに一般に浸透してきたものです。
 これを文脈に沿って要点化すると次のようになります。

 1) 孫右衛門は大坂夏の陣(1615年)の後、江戸に出て家康に永く仕えたいと願い出た。
 2)天正十八年(1590年)に孫右衛門らは家康と共に江戸に出た。
 3) 安藤対馬守の命令で漁民三十余名が江戸に出て白魚漁をはじめた。

 これは町奉行所へ提出した書上で、魚河岸側から役所に対して、自分らの出身はこうですよ、と説明するものですが、よくみると変なところがあります。魚河岸成立のきっかけが大坂の陣での軍功の褒美として江戸に出たいと願い出たにもかかわらず、その二十五年前にすでに家康と共に江戸に出ている。記述の順番も逆です。なぜこんな矛盾した由来を提出したのでしょう。
 また、下って天保十三年(1842)の「肴納屋由来書」にも「天正十八年、家康公御入国と共に魚市場起立」とあり、これは前年の水野忠邦の"天保の改革"による株仲間廃止が魚河岸に波及するのをかわそうとして自らの出生の古さを示そうと、天正十八年を強調しているように思われます。さらに安政五年(1858年)の町奉行所への上申でも「家康公御入国以来の……」とあり、とにかく江戸の最初より魚河岸は開かれたということをお上に申し上げるのが常套手段であるかのような印象を受けます。
 これに対して町奉行からは、たびたび魚河岸成立時期について問いただしていたようです。「佃島文書」といわれる史料には年代は不明ですが、その質疑が記録されていて、およそ次のようなやり取りがされます。
 「そなたらは天正年中より御用を勤めているというが、その証拠はあるのか」
 これに対し佃漁民は、
 「お恐れながら、我らは天正年中より江戸に出てまいりましたことは、先祖よりの伝承により……」
 「いつもそのように申すが、本当のところはどうなのだ。年号の間違いではないのか」
 「そのように申されましても、私どもが天正年中より……」
 このような問答が続き、明確な返答は出てまいりません。
 ともかく魚河岸側は何としてでも天正十八年魚河岸成立ということにしたかったということです。なぜならその年は家康江戸入りであり、江戸が開かれたときにすでに魚河岸はあったとすることで他の問屋とは違うことを強調し、自分たちの存在に重みを持たせようとしたというのが本当のところでしょう。
 実際、天正十八年に森一族が家康について江戸に出てきたのは事実のようですが、それは魚店を開くためではなく、むしろ軍役にかかわることであった。そして、日本橋に魚市場が定着するまでにはさらに二十数年かかるわけですから、魚河岸側が天正十八年をやたらに主張したことにより、魚河岸の起源がより分かりにくくなってしまったわけです。
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