最初に来た者と後から来た者


 慶長から元和の頃に日本橋本小田原町に魚河岸がひらかれたとすれば、『紀要』の中にでてくる慶長九年の家光誕生の際に御祝儀魚を仰せつかったという七人こそ、最初に店を開いた者であったことでしょう。

  森九左衛門(森九右衛門と同一人物)
  森与市右衛門
  森作治兵衛
  井上与市右衛門
  井上作治兵衛
  矢田三十郎
  佃屋忠左衛門

 この七人は森一族であり、やがて江戸の人口増加に伴って拡大していく魚河岸の源流と思われます。魚河岸は、はじめは本小田原町で商売をしていたのが、やがてより荷揚げに便利な本船町へと進出していったといいます。その過程はなかなか難しいものがあるので、少し整理してみましょう。
 森一族は魚問屋をはじめたけれども、もともとは漁民で、その手法は産地の魚を持ってきて売るという旧来のかたち、経営規模もあまり大きくはなく、需要の増大には問屋数の拡散をもって対応するものでした。しかし、後に魚河岸に出てくる問屋は、主に関西から来た商人たちであり、独自の産地を持ち(持浦といいます)、その集荷力を背景にしての商売をします。後々まで魚問屋の屋号に関西の地名を冠したものが多かったのはこうした理由です。これら関西商人の開いた問屋が次第に立地の良い本船町に進出し、そこでメインストリートを形成していったとみてよいでしょう。すなわち魚河岸はその草創期に、当初のかたちが変容しつつ出来上がっていったもので、それは最初に店を開いた森一族以後にやってきた商人らの力が大きくかかわったことを考えてみる必要があろうと思います。

 さて、七人に続いて魚河岸に入ってきたのは、当然ながら佃村や大和田村など森一族と結びつきの強い摂津の問屋でした。以後、森一族とその同郷の流れを組む魚商を摂津系と呼びましょう。摂津系問屋は魚河岸の主流をなす存在であり、同族同郷による独占状況にあったはずです。しかしどうしたことか、まさに摂津系による魚河岸専制が形づくられていく元和二年、この流れとはまったく別の魚商である大和屋助五郎という者が日本橋に出てきます。かれは大和国桜井の出身で摂津一派とは何のつながりもありません。このたった一軒の新規参入が、あたかも水面に投じた小石が波紋を広げるように、その後の魚問屋のかたちを変えてしまうほどの影響を与えます。それは助五郎の商売の方法が摂津系とは全く違ったものだったからです。


              〜〜〜 魚河岸ミステリー その3〜〜〜
              〜〜〜 本小田原町に河岸はない〜〜〜



 「本小田原町に魚河岸がひらかれた」と言われて「はいそうですか」と納得すればそれまでですが、ちょっと考えてみると、なぜ本小田原町なのかという疑問にぶつかります。そこは市場を開くのに決して適した場所ではない。とても重要なもの、水辺がここにはないのです。
 切絵図で確認すれば分かるように、本小田原町は川に面していません。どこにも河岸がないのです。そして、本小田原町の南側、本船町が日本橋川に面していて便がよく、後にこちらに魚河岸が進出してくることになります。
 すると、はじめから本船町に魚河岸をひらかず、なぜ不便な本小田原町にひらいたのかという疑問にぶつかりませんか。実はその答えは容易で、つまり当初本船町には別のもの、すなわち船具商や麻店があって魚河岸が入りこめなかったというだけのことなのです。そこで市場建設としては二等地ともいえる本小田原町に甘んじなければならなかったけれど、本船町の河岸は実に魅力的で、ノドから手が出るほど欲しい場所でした。ですから魚河岸が拡大すると、その勢いに乗じて、なしくずしに本船町一帯を侵食していくことになります。

 さて、ここで注目しておきたいのが、本船町という一等地には大きな持浦のある魚問屋が進出し、魚河岸のメインストリートを形成するにいたったということで、それは魚河岸の創始者たる森一族の流れをくむ摂津系問屋以外の者らが入りこむ余地が生まれたという点です。もしも、森一族がはじめから本船町に店をひらくことができたなら、その後の魚河岸の形態も違っていたことでしょう。想像をたくましくすれば、もっと小規模で素朴な魚市場を思い浮かべることもできます。その結果、江戸市中には他にも数ヶ所の魚河岸がひらかれたことでしょう。それは、後に芝とか深川とか築地にできる中堅市場が日本橋に拮抗、あるいは凌駕する勢力として存在するというかたちだったかもしれません。

 しかし、実際の歴史はどうであったかというと、メインストリートに並んだのは、その後にやってきた新進の魚問屋らが多く、摂津系問屋は主流をいくものではあるけれど、商売の方法からみれば、地方に漁場を求めるという点では特異な存在ではなく、却って多くの魚問屋の中に埋没していくことになります。そして、後発参入者の入り込む余地があったことが、江戸の人口増加及び需要増と相まって、魚河岸は巨万の富を生み出す一大商業地へと成長していくことになります。
 それは、本船町に最初から魚河岸がひらかれなかったことがきっかけともなったともいえ、歴史上のちょっとしたアヤが後になって多大な影響を及ぼすという例がここにもあるわけです。

 もうひとつ、本小田原町の由来ともなった石揚場ですが、これまた水辺でないところにそんなものはつくれません。一説によるとここには単に石工たちの住居があっただけで、石揚場は鎌倉河岸にあったといいます。なるほどその方が江戸城造営には便利な場所であり合点がいくように思われます。
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