魚問屋のしくみ


 寛永年間(1688〜1703年)になると関西地方の資本力のある商人たちが江戸に集まってきて問屋になることを願い出ました。この際それぞれが納魚を名目にしたため、その代償に公租公課を免除されることになり、これがのちのち幕府の魚河岸への特例ともなっていきます。この時期に何軒の問屋が存在したのかはっきりとはしませんが、魚河岸がかたちを整えて、ある程度の規模になっていたことは確かでしょう。
 では、魚問屋はどのように魚を集め、商売をしたのか。そのしくみについてみてみましょう。
 魚問屋はそれぞれ自分の店に魚を送ってくる漁場を持っていました。これを持浦といいます。ただし活鯛問屋は敷浦といいました。持浦、敷浦がなければ魚問屋は商売ができません。いわば財産でしたから、浦方とは固い契約を結び、密接な関係を保ちました。
魚問屋は浦方の網元から直接、あるいは在方問屋を通じて魚を買い入れます。在方問屋とはそれぞれの産地で集荷・販売など行なう旅人(たびにん)と呼ばれる商人で、塩干物を集める者は五十集商人(いさばしょうにん)とも呼ばれました。


 このとき浦方からは、その浦で獲れた魚は一尾残さず在方問屋なり、魚河岸に荷を運ぶ押送業者に渡すという仕入証文を入れます。魚問屋はそれに対して仕入金を出すということで契約がなされました。これは船主や網元に規模に応じて百両から三百両くらいが相場だったようです。
 魚問屋と浦との契約は四ヶ月を一職と呼んで一漁期と定めており、その切換えとなるのが三月十五日、七月十五日、十一月十五日で、このときに清算をします。そこには予定の水揚げが設定されていて、それに達すればそのままですが、もしも不漁などで予定量に達しなかった場合、不足の分を返済するか、次の職に持ち越されることとなります。

 魚問屋は浦方に対して何につけても金で縛りつけるかたちをとりましたし、魚問屋同士は互いの持浦をおかさないように注意していましたから、浦方には自分以外の問屋に荷を出すことをまかりならぬ、を不文律とするなど、かなり従属に近い関係を強いました。また魚問屋には魚上納の義務という大義名分がありましたから、これが持浦に対する発言力をいっそう強くさせたということもあります。
 いっぽう浦方では、漁法の発達により漁獲量が増えてくると、あたらしい在方問屋や押送業者がでてきたり、複数の問屋へ出そうとする者もあらわれたりすると。そこでいざこざも起こります。また、仕入金が足かせになって、魚価を抑えられる、高い口銭を取られるといったことで不満は強く、それが後に本牧浦周辺の漁師らが訴えを起こし、商人の力を借りて本材木町に新市場を開くという事件にもつながっていきます。
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