魚河岸の発展と市場地域の拡大


 江戸の人口増大による需要増とそれに見合うための供給量増加によって魚河岸はどんどん大きくなっていきます。

 これを如実にあらわす事例として『歴史』はひとつの逸話をあげています。
 「寛永十三年(1636年)頃、伊勢町の米問屋、米屋太郎兵衛が同郷人で館山の魚商佐治兵衛から"儲かるから"とさそわれて出荷を受けたところ、江戸市中日増しの繁盛により格別の利潤を生み、これにより商売替えをして本船町に魚店を開いた」
 伊勢町というのは魚河岸のとなりに位置し、そこには米河岸がありました。米河岸は江戸初期にはまことに繁盛し、たいそうな羽振りをきかしましたが、本小田原町の魚屋連中はかれらが大嫌いで、犬猿の仲というほどに対立していたといいます。それが元禄の頃には逆転し、魚河岸の方がはるかに繁盛していきます。
 
この話はその五十年以上も前のことですが、すでに大尽商売の米問屋から魚問屋に転身をしようというほどに魚河岸は発展しつつあった、とみてよいでしょう。
  ちなみにここで登場する米屋太郎兵衛は、後に「米屋」を名乗る魚問屋の創始です。現在も築地市場の仲卸業者にみられる商号「米○」の源流はこの時代にみられるのです。

 さて、こうした需要増によって魚河岸は問屋数が増加し、市場地域を拡大していきます。
最初は本小田原町に店をひらいたのが、荷揚げの便利さから本船町へと拡大していったことは先に述べましたが、その後、近接地域の本船町横町に拡がり、さらに本小田原町と本船町にはさまれた安針町もまた市場地域に組み込まれます。安針町は、慶長五年(1600年)日本にやってきたイギリス人ウイリアム・アダムス、帰化名三浦安針の拝領屋敷があったための町名ですが、おそらく安針の没した元和六年(1620年)以降に屋敷が廃止されて町人地となり、ここに魚問屋が入り込んでいったのではないでしょうか。

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