請下(仲買人)の発生


 次第に増大する需要によって魚河岸全体の売上もまた増えていきます。しかし、限られた地域に小さな問屋がひしめく魚河岸では、たとえ市場地域が拡大しても、各々の魚問屋が商売の規模を拡大するには、おのずと限界がありました。そんなとき、魚問屋が多くの需要に対応するには3つの方法があったと考えられます。
 そのひとつは大和屋助五郎が大規模な経営で活鯛問屋の独占体制をきずき、一業者としての規模を拡大していったやり方です。しかし、これは特殊な例で、大和屋だからできたことであって他の問屋には無理な相談でした。
 多くの問屋は自分の系列下に問屋を新設するという方法をとります。問屋数の増加で対応することで、さらに需要は増大し、魚河岸も拡大していくという循環が生まれてきます。けれど、魚問屋にしてみれば、いくら自分の系列にある孫店といえども、自らの集荷力を分散することともなり、かんばしくありません。
 そこで問屋が自分の集荷の権利を手離さずに商売を拡大させる方法として、「請下(うけした)」と呼ばれる者を自分のところに置きました。請下とは問屋が請人(保証人)となって小売商などに魚を売ったことから、そう呼ばれたもので、つまり仲買人のことです。それまで魚問屋といえば「問屋兼仲買」であり、問屋業務のなかに仲買行為が含まれているものでしたが、これを分業とすることで商売の効率化が生まれてきます。
 ただし、これが現在の仲卸のはじまりだというと必ずしも正しくないように思われます。現行の卸売市場法における卸の集荷機能、仲卸の分化・評価機能という役割分担が公平公正の市場原則にのっとったものであるのに対し、初期の請下(仲買人)はあくまでも荷物の「下売り」がその使命であって、魚問屋とは従属関係にあるからです。
 『紀要』の記事を拾ってみると請下の発生を次のように書いています。


 「市場の仲買は従来より請下仲買といい、問屋の付属として売買についても組合規約に至るまで、その親問屋の引き受けにて渡世する者であり……問屋の下売りをするだけで、原価を定めず、あるいは原価を定めても現金を持たず、魚の売買の後に相場を定めて代価を支払う。別に口銭というものもなく、売買の間に多少の利潤を得る程度である」

 これにより請下は当初ごく小さな商いであったことが分かります。
 さて、請下は本船町河岸際の家屋の軒下を借りて魚を並べ売りしました。その際、魚を並べた台を板舟(いたぶね)といいました。これは盤台の縁に三寸ばかりの板を打ちつけたかたちが舟のように見えるからついた名称で、この縁板は並べた魚の鮮度保持のために水をかけたのが流れないようにしたものだといいます。
 かれらは毎朝、問屋から魚をもらい、これを自分の器量で売りさばきます。その後、河岸引けに問屋が集まって、その日の相場によって魚の値を決めるのですが、その言い値よりも自分の売り値が高ければ儲けとなります。もしも言い値が高ければ問屋に掛け合って値切ることもでき、自分の裁量次第でどうともなる商売ではありました。

 はじめは問屋の従属機関であった請下が、商売として成り立ってくるようになると、次第に問屋から独立していき、仲買専業の店が生まれる土壌ができていきます。そして魚河岸を形成する重要な役割を担うことになります。
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