魚会所と四組問屋の設立


 幕府へ献上した残余の魚を市中で売ったことがはじまりとされるように、魚河岸では納魚こそが重要な使命でした。問屋にとってそれは義務というよりは名誉なことで、また、幕府も三代将軍家光の頃までは財政に余裕があったため、魚河岸の誠実な納魚に対して褒美金を下賜するなど、そこには良好な信頼関係が保たれていました。しかし、需要の増大や魚価の高騰などにより、問屋は幕府に廉価で高級魚を納めることが次第に負担になっていきます。幕府も台所事情の苦しさから、請負人制度の導入であるとか、後には肴納役所を設けて容赦ない取立てをするようになり、信頼関係などあっけなく崩れてしまいます。
 魚会所というのは、いわば組合事務所のようなものですが、主に納魚の事務処理機関として、まだ幕府と問屋とが蜜月の時期にあった元和のはじめ頃、本小田原町に置かれました。『紀要』には「幕府への納魚はもっぱら本小田原町がおこなった」とあり、幕府への納魚が権威であったことを感じさせます。つまり、本小田原町の問屋が日本橋魚河岸の権威を握る存在であり、発言力も強かったでしょうから、自主的に魚会所もつくるわけです。本船町へと進出した問屋には権威はありません。ただ、納魚がない分だけ負担が減少し利益は上がるわけですから、その立地の好条件も含めて、本船町は名より実をとったともいえるでしょう。
 魚会所が納魚のために設立したならば、それを運用するための何らかの組合組織が発生していたと考えられます。おそらく当初は本小田原町問屋を中心とする単一の組合ができて、魚会所をつかさどっていたのでしょう。それが市場地域の拡大により、本船町から本船町横町、そして安針町へとあたらしい問屋が進出していくと、古い問屋による本小田原の単一組織というわけにいかなくなります。そこには地域差による利害もあれば納魚の格差も生じてきます。してみるとすでに納魚が名誉なものから負担なものになりはじめていたのかもしれません。ともかく地域並びに問屋の性格別に四つの魚問屋組織が編成され、魚会所も組合ごとにできて(本船町横組と安針町組は持ち合い)、納魚も分担し合うようになります。
 ここで四組魚問屋それぞれの特徴をみてみましょう。

 ・本小田原町組
  本小田原町は、森九右衛門ら森一族が最初に魚市場を開いた場所で、古い魚問屋で組
織される魚河岸の中心的な存在であり、とくに初期には最も発言力が強かったと思われます。

 ・本船町組
  ここには、あらかじめ持浦のある魚商が入り込んでいった場所で、荷揚げの便利も良 く最も繁盛し、やがて小田原町組からその中心的地位を奪っていきます。この組は後に古くからの問屋による古組と、古顔が牛耳るのを嫌った新興問屋によって組織された大組に分離します。

 ・本船町横組
 『紀要』に「更に組合を分かち」とあるのを見ると、本船町が古組と大組に分かれたのちに、さらに横組に分割されたのかもしれません。

 ・安針町組
 この組は本材木町に新肴場ができた際、そちらへ転入しようという問屋が何軒も出ました。
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