新肴場の開市


 延宝二年(1678年)、日本橋魚河岸とは別の魚市場として、本材木町一丁目、二丁目に「新肴場」が公許されます。これは日本橋魚河岸の締めつけに耐えかねた武州・相州の漁民たちが立ち上がり幕府に訴願した末に開設に至ったもので、日本橋魚河岸はじまって以来の大事件、自らの権威にかかわるということで大騒動となりました。

 事の起こりは武州本牧村の漁民が日本橋魚河岸のやり方に対して「あまりにひどい」と声を上げたことによります。本牧浦は魚河岸への出荷一本でやっていましたが、他の江戸内海の各浦からの魚に比べて距離的な理由から生鮮度が落ちるなどとされ、ぐっと安い仕切価格に抑えられていました。それだけならまだしも、一割六分という高率の口銭(マージン)がかけられたからたまりません。ついに不満が吹き出すかたちで魚河岸側との抗争がはじまりました。
 本牧浦はまず近隣の三浦村などと話合いの上で味方に引き入れ、武州・相州で十七ヶ村
もの盟約を取り付け、これにより魚河岸側と交渉に入ります。しかし魚河岸には幕府納魚という大義があります。漁民であっても納魚を負担するという意味の口銭であると突っぱねました。そこには、どうせ仕入金を入れてあるのだから、連中にはそれを返す力はあるはずがない、とタカをくくった魚河岸の態度が見えます。
 さて、直接交渉ではダメだとなると、漁民側は時の勘定奉行甲斐庄喜右衛門に対して日本橋魚河岸の口銭一割六分を軽くするように願い出ます。願いを受けた甲斐庄喜右衛門は、まず、双方の示談を考え、魚河岸側に対して説得をしますが、その返答は「口銭引下迷惑之趣」というきっぱりとしたものであったので、最早これは勘定奉行の判断では決着しないものと考え、当時の最高裁判所ともいえる「評定所」へと上申をしました。
 まもなく評定所からの裁定が下ります。それは、魚河岸側が口銭の引下げに応じず、漁民側もなおこれに不満をもつのであれば、「何方ヘ成共新規問屋取建、勝手ニ魚類差送可申」としたもので、つまり、自力で新しい市場を開設し得るならば、そこへ出荷してもよいという許可でした。
 これですべては解消したかに思えました。なぜなら、現実問題として漁民側に市場を開設するなど無理な相談だからです。魚河岸側はそれ見たことかと高笑いしたことでしょう。
 しかし、問題は急転直下します。本材木町の家主九人とその名主が漁民達に力を貸そうと申し出たのです。かれらは日本橋川を隔てた向こう岸の日本橋魚河岸の繁盛を見ていて、そこの家主らがずいぶんといい思いをしているのを知っていましたから、この期に乗じて自分たちも同じことがしたいと、新市場を自分らの町に招致することを提案しました。そのために漁民らが魚河岸によって足かせとされていた仕入金三千両を含む必要経費六千両を、本材木町に新市場を開設する資金として拝借したいという願いを勘定奉行に対して起こします。前回の裁定で市場を開設してもかまわないということでしたから、今度は魚河岸側も口を出せません。かれらがキリキリする思いで見守るなか、裁判はトントンと進み、結局、本材木町の九人の家主たちは抵当として家屋、財産一式を担保に入れ、沽券状も提出した上で、六千両の貸下げが決定しました。
 家主たちはさっそく魚河岸の仕入金を返済させることで、魚河岸と漁民との関係を断ち切りますと、次に本材木町に店借りしていました材木商らを立ち退かせました。もちろん、その際かなりの費用がかかったことでしょうが、ここに晴れて新市場「新肴場」が誕生することとなりました。通称「新場」。そして、仇敵である日本橋魚河岸側に対しては、おそらく対抗意識もあったでしょう、「新場」に対して古い権力の集まりという意味の「古場」という名で呼んだといいます。

 苦心の末にようやく開設した「新場」。しかし順風満帆とはいきませんでした。家主らを通じて借用した六千両の毎月の返済は重くのしかかり、大きな負担のうちで商売をしなければなりません。また、魚問屋に対する何のノウハウもないままの開設のために相次ぐトラブルの発生に頭を悩ませました。
 さらに受難は続きます。日本橋魚河岸による一種の意趣返しという意味もあったでしょう、魚市場をはじめる上は納魚の義務を遂行すべしという通達があります。そして当番として毎月十日までの割り当て、すなわち全体の三分の一にあたる納魚を受け持たされることになりました。これはまだ集荷力の乏しい新市場としては過酷ともいえる量です。
 しかし、新場はどうにかこうにか、こうした初期の困難をのりこえて、江戸時代を通じて商売を続け、日本橋魚河岸に続く、いわばナンバー2としての地位を築いていきます。

 この新市場の誕生は、日本橋魚河岸にはかりしれないショックを与えました。うなぎのぼりで増加する売上と次第に整っていく市場組織、さあこれから発展を遂げようという時期に、魚問屋のしくみそのものを揺るがすこの事件の発生は、魚河岸がその初期段階においてすでに抱えていた矛盾を露呈するものだったのです。そして、これより先、同様のもめごとが、より深刻なかたちで起こってくるのですが、まさにそれを感じさせる不吉な予兆として、魚河岸の行く末に暗い影を落とすのです。
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