佃島の完成


 ここで再び時間を戻してみましょう。
魚河岸の歴史の冒頭で森孫右衛門らが家康と共に江戸に出てきて、江戸向島、のちの佃島を拝領して漁業を営み、幕府に魚を献上した残りを市中に売ったというのが魚河岸のはじまりというものでした。このとき江戸向島に移り住んだという漁師たちは、同じ森一族でありながら、魚河岸をはじめた九右衛門らとは別のグループだということを確認しておきましょう。かれらのその後の消息について『紀要』には詳しい記述がありません。果たして魚河岸とは無関係の道を歩んだのでしょうか?

 『江戸名所図会』の佃島の由来には森一族の記述があり、江戸へ出てからのかれらの行動が記されています。これによると、大坂の陣で家康に仕えた後、漁師三十四人が江戸に呼ばれ、小網町の安藤対馬守の屋敷をはじめ、小石川網干町、難波町(のちの日本橋浪花町)などの屋敷町に分宿し、漁業を営む一方で海上偵察の任にあたり、その様子を安藤対馬守に報告していました。そして慶長十八年(1613年)、江戸湾での漁業の特権を得たとあります。
 この特権というのが江戸近辺の海川なら自由に操業して良いというお墨付きで、佃の名主のもとに明治の頃まで大切に保管されていたといいます。江戸近辺ならどこでもとは大変な約束ですが、同じような話に青山忠成という人が家康から一頭の老馬を与えられたのち、この馬が倒れるまで一日乗り回しただけの土地を与えようという約束をもらったといいます。これが現在の港区青山の由来というのですが、江戸のはじめにはこうした大盤振る舞いの言い伝えをよくききます。佃の漁民もお墨付きをもらったとはいえ、本当に江戸湊全体を手にしたわけではありません。そこには以前よりの在住漁民がいまして、かれらとの間でトラブルもあり、かなりの緊張状態にあったといいます。
 江戸の在住漁民たちの漁法というのは四つ手網や一本釣りといった原始的なものであったのに対して、森一族らは地獄網と呼ばれる大量漁獲法を持っていたため、比較にならない漁獲高を上げ、これが幕府献上の残余を市中に売買することを可能にすることになるのですが、当時の世相を記録した『慶長見聞集』には、この地獄網の威力とともに、それによる資源枯渇の危惧を「この地獄網にて取り尽くしぬれば、いまは十の物一つもなし」と書かれています。

 さて、漁業の特権を得た森一族は「白魚漁」を専業として幕府の御膳魚の調達をするようになります。これには面白い逸話がありまして、江戸近辺に網を引くことを許された当時、ある日のこと雪のように白い小魚が網にかかりました。漁師たちがまだ見たこともない魚で、何と頭のところに葵の紋が浮かび上がっております。葵は徳川家のしるしなので大騒ぎし、さっそくこれを献上したところ、家康の方ではこの魚をよく知っていて、これは白魚といい、生国三河にある頃、浜の漁民が余の食膳に供したものである。江戸の地でこの魚を見ることができたのはまことに目出度いことだ、と大喜びしたというのです。もちろんこれは白魚を価値づけるための伝説でしょうが、実は白魚という魚は江戸にはもともとなく、家康入国の際に誰かが三河から持ってきて浅草川(隅田川)に流したものだとも言われております。そのために将軍家献上以外は獲ってはいけない「御止魚」となり、永らく佃島漁師の独占となりました。

 寛永七年(1630年)向井将藍が海賊奉行に就任し、海賊橋際に将藍屋敷をつくり海上警護にあたることになりました。すると、漁民に江戸湊の偵察にあたらせるのも不都合ということで、かれらに鉄砲洲干潟百間四方を与えて、そこで漁業に専業させることとしました。森一族は江戸湾入江に位置するその干潟が故郷の佃村にそっくりだということで、佃島と名づけて造成工事に着手します。
 それから実に十五年もの歳月をかけて築造は続き、正保元年(1644年)にようやく佃島は完成をみます。ですから佃島を拝領したといっても、実際はそんな簡単なことではなく、漁民たちは測量、土木、建築などの専門的工事を自力で行うという、まことに大変な努力をして自らの土地を築いたのです。
 それは現在でいえば都市プランナーにあたるようなもので、特殊な技術力と計画性を有していたといってもさしつかえないでしょう。それが明暦の大火で焼失した西本願寺の再建をやってのけることになります。



〜〜〜 魚河岸ミステリー その5〜〜〜
〜〜〜 南小田原町と魚河岸の関係 〜〜〜


 南小田原町とは、現在の築地市場に隣接する築地六、七丁目にあたる地域の旧い町名で、もと海幸橋のあったところをわたり、波除神社から晴海通りを隔てた向こう側までがその範囲となります。
 先に江戸の町づくりのところで、日本橋魚河岸が最初につくられた本小田原町は、江戸城普請の際に、小田原の石工たちの石揚場があったことからついた名で、これが慶長末に築地に移ったために、日本橋の方を本小田原町、築地を南小田原町と呼ぶことになったことを記しました。さらに本小田原町には荷揚げのための河岸はないことから、そこが本当に石揚場だったかも疑わしく、鎌倉河岸あたりに石揚場があって、本小田原町には石工たちの住居があったのではないか、という説もみました。
 ということは話の流れからすれば南小田原町には本小田原町から移ってきた石工たちの拝領地があったはずです。しかし慶長の頃、あるいは少し下って元和年間(1615〜1624年)としてみても、築地辺の埋立ては行われておらず、海川あるいは干潟のような状態だったといいます。果たしてそんな土地を拝領したのか、また、南小田原町をひらいたのが石工だったのか、はなはだ疑問になります。
 南小田原町が石工移住によるものとするこの定説に対して、京橋区史はその由来を「寛文四年(1664年)小田原町の魚問屋たちが官許によってその地に市街を立てたから」としています。もしもこの説をとるなら、南小田原町は魚河岸の問屋によって開かれた土地であり、町名もその際につけられたとみることができます。

 『歴史』は南小田原町が魚河岸の問屋による、まさに先行投資によってつくられた市街地ではないかと推理しています。『紀要』の安政五年(1858年)文書には、肴役所より魚河岸に「魚問屋どもは南小田原町に住んでいたことがあるのか」と尋問するのに対し、魚河岸側は「旧記にてすでに焼失してしまい」云々としどろもどろに答えているのが記録されています。『歴史』は『紀要』が魚河岸にとって都合の悪いことはあえて記さないことを指摘した上で、同書に魚問屋が四千両を上納し、寛文四年五月十六日、南小田原町に屋敷地を賜ったという記述があり、あいまいな表現ながら「とても四千両を投じて獲得する」場所とは思えない南小田原町への先行投資の思惑をみます。
 そこには、明暦の大火(1657年)後に本願寺が浅草横山町から現在の築地へ移転してきたことが前提となりました。大火で焼失した本願寺は同地に再建することが許されず、替地として"八丁堀の海上"を下附されることとなりましたが、その際に建立を行ったのが佃島の漁師たちでした。日頃より同寺を信仰するかれらは浅瀬に土地を築き、自力で築地御坊を開いたのです。佃島がかれら自身の手でよって十五年間もの期間をかけて造成された土地であることはすでに述べましたが、そこで培われたノウハウ、さらに信仰心の力によって本願寺の建立工事は行われ、明暦の大火から数えて十九年後の延宝元年(1673年)に完成をみます。そもそも築地の地名は佃島漁師たちが本願寺建立のために築いた埋立地として称されたものなのです。
 魚問屋が四千両と引き換えに南小田原町を拝領したという寛文四年は、本願寺建立工事の真っ只中にありました。本願寺の隣接地域の裏手にあたる同町もまた、技術者集団である佃島漁師らによって造成することを見越していたことでしょう。本願寺と南小田原町の造成はセットものとして、魚河岸にとってはあらま欲しきものでありました。そこがどれほどの利益を生み出したものかは不明です。江戸図をみると、文化図(1813年)には南小田原丁、肴丁とあり、文久図(1861年)にも南小田原町に魚店と記されています。そこに何らかの魚販売が行われていた形跡もみることができますが、そのために大枚四千両と膨大な人的労力を払ってまで開発したとはとても思えません。

 そこで考えてみたいのが、四千両上納が本願寺建立による築地一帯の沽券高の高騰をみての先行投資という面は確かにあったかもしれませんが、前後の状況からみると、むしろ打算的な思惑以上のものだったのではないかということです。長年の労苦によって開発した島を故郷佃村を連想させることから佃島と名づけ、さらに信仰となる御坊を自らの力によって築いたことで、その寺社地と佃島を結ぶ地域である南小田原町はお金には換えられない土地とみたのではないかということです。表裏一体の関係にある魚河岸と佃島漁師にとって築地一帯は自らのルーツをとどめる聖地の意味があったのではないでしょうか。
 思えば関東大震災後、魚河岸が中央卸売市場として南小田原町の隣接地に移転してくるのも、偶然とはいえ、魚河岸の起源に密接な関係を持つ同地であれば、まことに因縁めいたものすら感じてしまうのです。
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