まとめ ―江戸の世相と魚河岸―


  ここまで魚河岸での出来事を中心にみてきましたが、あらためてその発展過程を当時の社会状況と重ねてみようと思います。
 そこで、まず知っておかなければならないのは、江戸時代というのはある日突然にやってきたのではないということです。日本史年表をみれば江戸時代の前は戦国時代であり、家康が征夷大将軍となり幕府を開いた慶長八年(1603年)は、その三年前に関ヶ原の戦いがあり、さらに大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡する元和元年(1615年)は十二年後の出来事となります。江戸時代は戦国時代の延長としてはじまったのです。
 元来、江戸を含む関東の武士というのは大変に気性の荒いことで有名で、関八州の荒武者がそろえば全国の軍勢を相手にできるとまでいわれていました。江戸が開かれてなお七、八十年ほどの間は戦国時代の気風が色濃く残っていて、こうした荒武者のなれの果てが市中を闊歩し、寛永の頃には辻斬(つじぎり)というのが大変に横行します。寛永六年(1629年)幕府は、辻斬を取り締まるために辻番所(つじばんしょ)を設けますが、これが約百年後の元文年間(1736〜41年)までに930ヶ所にも及んだといいますから、戦国時代の鼻息は長く続いていたとみるべきでしょう。
 無礼打(ぶれいうち)というのもありました。これは町人が武士に無礼を働いた場合に斬られても文句は言えないというもので、五代綱吉の生類憐みの令で禁止された遺風なのですが、よくテレビの時代劇で登場するような横暴な武士というのも当時にはいたようです。もっとも斬られる側の町人の方でも、武士に負けずという者もおり、逆に侍を打ち倒したという話もありますから、階級制度上の武士の威厳とかいうよりも、強い者が幅を利かせるという空気が世の中に満ちていたといえます。
 そうした武士の強さは、まだ幕府の財政が健全であったことを示すもので、江戸初期に金を持っていたのは武家の側だったことがその勢いを強めていたという面があります。ですから魚河岸が納魚を目的としたのも、それが上納という名目であれ、慶長九年の家光公誕生のご祝儀、鯛二百枚に対して、金百七十五両、銀百五十枚の褒美が下された例にみられるように下賜金は少なくはなかったという面があります。また、江戸城以外にも大名や大身の武家が重要なお得意先であり、活鯛問屋で名を成した大和屋助五郎もまた将軍家の活鯛御用達を目ざして江戸に出てきたわけですから、当初の魚河岸は、武家のふところの豊かさをあてにした商売だったわけです。

 しかし、武家の世の中はそう長くは続きませんでした。平和な時代の到来により、武士の存在はやがて形骸化していきます。何しろ禄高というものは増えません。しかし、消費都市江戸にあっては、その発展と共に物資の需要増による物価高が起こってきます。したがって武士は疲弊していき、それと対照的に町人が豊かになり、身分上では勝つことができない武士に対して「金で面をはたく」ようになっていきます。町人の力がひとつの頂点をみたのは元禄時代なのでしょうが、その発端として、明暦三年(1657年)の大火、世にいう振袖火事があると思います。
 明暦三年正月十八日、乾(いぬい)の強風が朝から吹くなか、午後二時頃、本郷五丁目丸山本妙寺より出火、火は瞬く間に湯島、神田、浅草御門、鎌倉河岸、京橋、八丁堀、霊岸島、鉄砲洲、佃島、深川をなめつくします。さらに十九日午前十時、今度は小石川伝通院前より出火、牛込御門、田安御門、神田橋御門、常盤橋御門、呉服橋御門、八代洲河岸、大名小路が焼失、前日に無事であった江戸城内にも火が回り、本丸、二の丸、三の丸と焼き、「金のシャッチョコを横目に睨んで、水道の水を産湯に使い、拝み搗きの米を喰って、日本橋の真ン中で育った金箔つきの江戸っ子」と自慢のタネともなった"金のシャッチョコ"こと江戸城の壮麗な五重の天守閣も焼け落ちて、そのまま再建されることはありませんでした。
 死者十万余ともいわれるこの大火で、家康の開府以来五十年余りにわたって営々と築き上げられた江戸の町は一瞬のうちに灰燼に帰します。しかし、その復興はことのほか早く、三月には町屋も復活し、魚河岸も元通りに再興したといいます。そして、武家屋敷や寺社の移転、新地の造成、町割の整備、火除地の設置や道路の拡張、両国橋の架橋と本所・深川の開発など開府以来の徹底的な都市計画の結果、江戸はさらに大きな都市へと変貌していくことになるのです。

 その一方で大火後、最も顕著になったのは幕府がその財政を大きく悪化させたということです。江戸復興に遣った金は百万両以上といわれます。世の中は慢性的なインフレ状態にあり、これがさらに幕府の財政はひっ迫させます。家康の時代に六百万両あったといわれる幕府の金銀は五代将軍綱吉の時代には、ほとんど底をついてしまいました。それらがどこへいったのかといえば、つまり町人の手に渡ったわけで、元禄時代には河村瑞賢や紀伊国屋文左衛門らの豪商が輩出されるように、経済の実権は完全に町人が握ることとなるのですが、武士が元気をなくし、世の中全体が金に走るようになると、江戸市中には奢侈があふれ、町人が普段着にも羽二重やちりめんを身につけるようになり、食べ物の贅沢さも高価なものから、珍しいもの走りものの魚などに大金を投じることを誇りとするといった風潮が生まれてきます。寛文五年(1665年)に魚河岸に出された令は、走りものの魚を禁じて、魚の売出す時期を決めたもので、それによれば
 ます 正月より
 かつお 四月より
 あゆ 四月より
 なまこ 八月末より
 さけ 八月末より
 あんこう 十一月より
 生たら 十一月より
 しらうお 十二月より
と制限されましたが、実際には大した効力はなかったといいます。

 幕府が緊縮財政へと転換することで、魚上納によって幕府と密接な関係にあった魚河岸にも変化が起こります。それまで名誉なことであった納魚がやがて負担となってくるのです。将軍家にはどうしても高級魚を出さなければならないのですが、市中に出せば高く売れる魚をみすみす納魚に回すのは惜しいという考えがでてきます。魚河岸は四組問屋を結成して持ち回りで納魚の責任を果たしていきますが、これは重い負担を皆で分け合おうというもので、魚河岸が将軍家への納魚という名誉によってある種の特権を得てもなお、それがよろこばしいことではなかったということを表わしているといえます。
 そのしわ寄せは魚河岸の支配する各地の浦方におよびます。仕入金によって統制する浦方に対して、魚河岸は幕府納魚を掲げることで、より強い発言力を持つことになります。その反動がついに延宝二年(1678年)浦方が日本橋魚河岸に反抗するかたちで、本材木町に新場を開くにいたります。
 一方で人口や需要の増加による売上げの拡大があり、また一方では納魚の負担や浦方との軋轢が生じるという矛盾をはらんだまま、魚河岸は江戸時代のバブル期ともいえる元禄期の繁栄の時代へと入っていくことになります。
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