元禄時代と魚河岸

 
 元禄時代の特徴をひとくちに言おうとすれば、幕府の財政が窮乏し、武家が元気をなくしていったのに対し、町人が豊かになって豪勢な暮らしをするようになり、消費文化の時代が到来した、ということになるでしょう。
 明暦の大火(1657年)の後、幕府は江戸の再建に百万両余をつかったほか、大名、旗本への拝借金、下賜金や町人への給付金として銀一万貫(約十六万両)を下しました。この出費がのちのちまで響くことになりますが、さらに翌年の万治元年(1658年)にも大火があり、町人に銀三千貫を下付しています。このような大火や、あるいは飢饉などが起こるたびに、江戸の再建や社会不安を抑えるための施策といったことに幕府は金をつかいますから、その資産は徐々に目減りをしていきます。幕府から出た金銀は、たとえば材木問屋であるとか米問屋とか青物問屋、そして魚河岸など生活物資をつかさどる商工業者に流出して、これが世の中にあふれることになります。すると好景気から消費がどんどん増大し、それにともなって諸物価ははねあがります。物が高くなれば、さらに多くの財貨が動くということで、江戸は慢性的ともいえるインフレ状況を迎えました。


  「……一寸先は闇なり。なんの糸瓜(へちま)の皮、思い置きは腹の病、当世当世にてらして、月雪花紅葉にうちむかい、歌をうたい酒のみ、浮にういてなぐさみ、手前のすり切(貧乏のこと)苦にならず……これを浮世と名づけるなり」と描かれているように、享楽的な空気が世の中に満ちあふれていて、巷では銭が水の如くに流れ、白銀が雪のように舞ったと『百年』に紹介されています。子どもの玩具にまで金銀がちりばめられたり、破魔弓ひとつを小判二両で買う分限者(成金)があらわれるとか、その頃最高級品であった佃島の白魚も「白魚を十チョボ(二百十匹)炒り玉子にからりと煮つけて、喜撰花の煮(上等な番茶)の苦いやつでお茶漬けを食べよう」といったグルメな嗜好が世間にあふれたといいます。何しろ銭は豊富にあるから、どんな高価なものにでも、馬鹿馬鹿しいくらいに惜しみなくつかう、いわば消費バブルの波にのって、経済の主体は町人が握ることとなります。

 このような消費天国の状況にあって、魚はたいそう高く売れました。高級魚の代表である鯛についてみますと、西鶴の『日本永代蔵』に「十月二十日のえびす講につきものの鯛は、その時期に値段が高くなるが、それでも京都ではどんな富豪だって一尾銀二匁五、六分で買ったのを近所で分けるのに、江戸では中くらいの鯛すら一尾一両二分もする。実に豪気なものだ」と出てきます。ここで銀六十匁を一両としますと、二匁五、六分はわずか二十五分の一両ですから、いかに江戸の物価が高かったか分かります。当時の町人の裕福さを示すものですが、さらに江戸人の大名気分というのも加わって、とめどもなくなっている様子がうかがえます。その頃は、魚の値段というのは消費者にはまったくわかりません。公正な取引なんてなく、魚価は問屋と請下との掛合いで決まりましたし、問屋は幕府への納魚の負担もあるので市中には何とか高く売ろうとします。そこに江戸の町人は高いものを買うことは外聞が良いという風潮があったので、法外な金額で魚が売買されることも珍しくありませんでした。だからこの時代に魚問屋はとても儲かった、そう考えても差し支えないものと思います。

 ところで、幕府がその財政を決定的に悪化させたことに、五代将軍綱吉の乱費がありました。なかでも有名な「生類憐れみの令」、これは貞享四年(1687年)に出されたものですが、生類の虐待を禁じ、特に犬については手厚く扱って、中野に広大な犬小屋を建築したり、違反者を厳罰に処したりで巷間には大変な不評を呼び、“犬公方”などとささやかれました。本来は聖徳太子の世には慈悲は鳥獣にまでおよぶという理想の実現を目指したもので、捨子や行き倒れの保護がうたわれたり、鷹狩を禁じることで在村の鉄砲を統制するとか、人心を温順にして庇護と支配の下に置き、諸大名を懐柔しようという志の高いものだったのですが、これがなかなかに費用がかさみ、元禄時代を通じて二十数年も続いたこの法令は幕府財政を明らかに深刻化させたといいます。食用の魚、鳥、貝類を畜養して売ることを禁じられたため、魚河岸でも、かなり困ったことと思います。こんな極端な政策がでてまいりますのも、太平の世が定着してきたからにほかなりません。いくさがないから武力が無用化し、何よりも金の力がものをいい、財力の勢いが世の中を動かしていく。そうした風潮にあふれたのが元禄時代であり、魚河岸の繁盛はその代表的なものでした。