棒手ふりの朝


 ここで、魚河岸の実際の商売がどんな様子だったかを知るために、ひとつ魚屋になったつもりで仕入れに行ってみることにしましょう。
 魚屋といえば日本一有名なのが一心太助です。この人は架空の人物なのですが、ここは固いことを言わずに、ご登場ねがうことにしましょう。
 
 一心太助は、いわゆる棒手(ぼて)ふりと呼ばれる行商人でありまして、このように肩から天秤棒をかついで町中を売り歩き、お得意先を回ります。当時の魚屋のほとんどがこのスタイルで、店持ちというのはごく少数でした。棒手ふりの魚屋は、路地までやって来てくれて、その場で魚をさばいてくれるのですから、ありがたい存在です。魚屋に限らず、あらゆる商品は棒手ふりの商人が売り歩きましたので、居ながらにしてコンビニが向こうからやって来てくれるようなものです。そういう意味では、とても便利な時代だったともいえますね。

 明六ツの空がかすかに白んでくる時分、太助は肩から提げた空っぽの盤台をカタカタいわせながら、小走りに日本橋へとやってきました。もう隣町にさしかかった頃から、鮮魚の臭いがぷんと鼻をつきます。すでに朝売りが始まっているのです。
 「おぅ、ごめんよ」太助は挨拶ももどかしく、盤台を器用に左右に振りながら通行人をすり抜けるようにして黒塗りの木戸に飛び込みました。
 そこは、魚河岸のメインストリートともいえる本船町の表店。すでに買出人でごった返しています。なにしろ江戸中から魚屋が集ってくる上、その多くは太助と同じように天秤棒を提げた棒手ふりですから、魚河岸の店先は、人の行き交うのも難しいくらいの混雑ぶりです。太助はもう慣れたものでしたが、はじめて河岸に来たころには、盤台をぶつけて、せっかく買った魚を路上に放り投げてみたり、荷が勝ちすぎて右にも左にも動けずに立ち往生したこともありました。
 「やいやい、買っていけ、いいコハダだ」
「おう、呉れてやれ、ヤリイカだ。おう、どこへ行く。お前にゃもったいねえくれえの品だ」
 人いきれのなかを売り手の怒号のような声が飛び交います。威勢が良いというか、乱暴というか、まるで喧嘩でもしているかのような勢いですが、これが魚河岸流。何といっても魚は鮮度が命、サッと並べてパッと売ってしまうのを身上としましたから、恐ろしいほどの勢いで取引が行われます。魚河岸の威勢の良さは鮮魚の活きの良さと競争するようなものだったわけです。
 「さあさぁ、見てみなよ。今朝方、押送舟(おしょくり)で河岸に揚がったばかりのサンマだ。お、太助の兄ィ、ちょうどいいところへきなすった。どうだい、いいサンマだろ」
 いつもの店の前を通りかかると、顔見知りが声をかけてきました。太助も樽のなかをのぞきこんで足を止めます。
 「うん、ピカピカ光ってやがるな」
 「あたりめえだよ。ついさっきまでピチピチはねてたくらいだ」
 店先で勢い良く魚を売っているのが請下と呼ばれる仲買人です。魚問屋がひと樽とか箱売りといったまとめ売りをする魚を買ってきて小分けにして売るのがかれらの仕事で、その日の入荷や季節に応じて目先をきかせて売ることが良い仲買人の条件でした。仲買人の多くは問屋に雇われていて、いわば従属の関係にありましたが、自分の裁量しだいでなかなかに儲かる商売でしたから、のちには仲買が独立した店を持つようになります。
 目先を利かせるのは、太助のような魚屋も同じで、その日の入荷状況を見ながら、お得意さんの好みを考えつつ魚をそろえます。ですから、売る方も買う方も相応の目利きができて、状況を判断しながらの売り買いにより、自然に魚の値段も決まっていきます。
 太助はお目当ての魚を求めて何軒かの店を回ることにしました。飛び交う売り声をやり過ごし、せまい通りをすり抜けながらも、左右にするどい視線を向けています。
 通りに並ぶ店々は、それぞれ魚をのせた台を軒先にせり出すようにしています。この台を板舟といいます。これは魚の鮮度を保つために張った水が流れないように縁板をしたのが舟のかたちに似ていることからついた名ですが、これを通りに出して売ることが、ひとつの権利となっていました。魚河岸のメインストリートでは、この板舟一枚が、千両で売買されたともいわれています。
 魚は板舟にのっているものばかりでなく、ヒラメやタイなどの活物は生簀に入れて売られたり、江戸橋寄りの地引河岸では、イワシやコノシロなどを「ダンベ」という大きな桶に入れて笊で計り売りします。
 さて、河岸をまんべんなく回って盤台を魚でいっぱいにし、天秤棒の重さが肩にずしりと食い込む頃には、東の空から、お日さまもすっかりと顔を出しています。
 「太助さん、休んでいきなよ」
通りを隔てた品川町の釘店(くぎだな)の方から潮待茶屋のおばさんが声をかけます。潮待茶屋とは、日本橋川から荷揚げするのに都合の良い上げ潮になるのを、荷捌人が待ったことからそのように呼ばれ、魚売りがひと休みをする場所ともなっていました。
 「ありがとよ。でも今朝はゆっくりもしてられねえんだ」
 もう太助の気持はお得意さんに向かっています。いま仕入れたばかりの魚を一刻も早く届けたい。長屋のおかみさん連中がこのサンマを見たら喜ぶだろうな。伊勢屋の旦那にはコハダを持っていってと。おっと、忘れちゃなんねえ。大久保のお殿さまには、いの一番にクロダイをお届けしなくちゃ。
太助は飛ぶように天秤棒を揺すりながら、朝もやの向こうに消えていきました。