買問屋と売問屋


 大阪では、問屋に買問屋と売問屋という棲み分けがあるといいます。この区分では、生産地から商品を集荷して業者に卸すところが買問屋であり、さらに買問屋から仕入れた商品を業者に卸したり、一般に売ったりするのが売問屋ということになります。
 これを築地市場にあてはめてみると、築地本場そのものは買問屋となり、それに対する売問屋として場外市場が存在するということになるでしょうか。ただし、築地場内は売問屋をかねている側面もあり、場外市場にも産地からの直接仕入もありますから、実際には混在しているわけですが、なべてみれば買問屋と売問屋それぞれの性格にかなっていると思います。  

さて、江戸時代の状況はどうだったかをみてみると、元禄十年の『国華万葉集』の記録に、「日本橋北東の中通り安針町より北へ誓願寺前まで、肴、八百屋、塩、醤油、つき米、薬問屋など多シ」とあって、日本橋魚河岸の裏手一帯が食料品街の様相を呈していたことがわかります。ちょうど現在の築地場外市場に近いものでしょう。この場合、魚河岸が買問屋、それに付属する地域に売問屋が拡がっていたとみることができます。
  さらに魚商の多い町として、「本船町、本小田原町、本材木町(新かし)、鈴木町、新右衛門町、八官町、大伝馬町二丁目、久保町、芝一、二、三丁目(片川也)、糀町三、四丁目、浅草駒がた、牛込、本郷、平松町、上野黒門町」と紹介しています。まるで玉石混合というかたちで並んでいますが、本船町、本小田原町は魚河岸、本材木町は新場、芝の片川というのは芝の魚市場のことです。芝市場は、家康入府以前に四日市に肴店を開いていた日比谷の漁師らが、江戸造成にあたって芝に移り市場を開いたもので、その歴史は魚河岸よりも古く、寛永年間に「御用魚撰立残魚売捌場」という名で正式に認められ、上納の残りを売ったことから「雑魚場」と呼ばれました。商いも小さく取扱高も知れていましたが、「芝肴」と呼ばれて江戸っ子には人気がありました。
 そのほかの、ここにあらわれている町名は、魚市場というほど規模は大きくはなく、単に魚店が多かった町だと思います。江戸時代に魚屋の多くは棒手ふりで、店持ちはごくわずかだったのですが、その数少ない店持ちが散在するのが、これらの町まちなのでしょう。といって、それを現在の魚屋のような店前で売る小売店と想像すると、ちょっと事情がちがいまして、ここでいう魚店とは、先の売問屋を考えてみる必要があります。つまり、棒手ふりの魚売りたちが働いて金をため、いつかは表店に魚屋を出すというのが、どういうことが知れてきます。それは、まさに売問屋を開くということにちがいありません。

 売問屋は買出しに行くにも棒手ふりのように天秤棒をかついでは行きません。足下もこれまでのように裸足や草履ばきというのではなく、長い股引きに高歯の下駄をはいて、颯爽と買付けをいたします。かれらは買問屋である魚河岸のように、地方に持浦があってそこから集荷するというものではないけれど、体裁としては問屋であって、棒手ふりにも売れば、自分のところでもお得意に配送する。そのため魚店の立地は魚市場に近接地や便利の良い場所であれば、なお好都合だったでしょう。
 たとえば、上の町名でいえば平松町というのは、今の八重洲に近いあたりで、本材木町の新場からもそう遠くない位置にあたります。そのような場所に魚店が集中していく傾向にあったのだと思います。