小田原町風がかっこいい


 この頃魚河岸は「朝千両の商い」といわれるようになります。これは早朝だけで千両の売上げがあるということで、ほかにも昼は芝居町で千両、夜は吉原で千両、合わせて三千両という金が毎日江戸で流れるとされていましたから、魚河岸の繁盛は当時を代表するものだったわけです。

 『百年』は、この時代の羽振りの良い魚河岸の旦那衆が、吉原で大盤振舞いをした様子を紹介しています。とくに「突出し」といって、吉原でまだ客に接していない新造がはじめて客をとるときの御祝儀があるのですが、この掛かりが三百両とか五百両といった大金にもかかわらずポーンと出すほどの気前の良さだったというのです。「突出し」は売れっ子の太夫が客に頼むのが通例でしたが、それも札差とか魚河岸、青物河岸、酒問屋、金銀座の役人といった景気の良い連中に限られます。ことに魚河岸の旦那衆といえば粋であることを自認する連中でしたから、なじみの太夫に頼まれれば嫌とは言えません。むしろ突出しをすれば遊びも一人前という風でしたから、ふたつ返事で応えます。もしも金がなければ河岸に戻って相談すると誰かが出してくれる。時には組合の共有金から立替えたというくらいですから、魚河岸の「はり」といったら大したものでした。

 それから幕府への納魚、これが大変な負担ではありましたが、一方でおおいに名誉なことで、御城に献上の魚を運ぶのに「御献上肴」と大きく幟を仕立てた大八車で行くのが何より自慢でした。これが通るときには大名行列さえも道をゆずったといいますから、まさに魚河岸の面目躍如たるもの、江戸の庶民で最も勢いのあった連中だったといえます。
 だから魚河岸といえば江戸っ子の見本のようなものだといわれました。当時、かれらのことを魚問屋のある町名から小田原町と呼んでいましたが、小田原町風というのがたいそう格好の良いものだ、当世風だ、と流行をみました。
 元禄期に流行した髪形に“本多髷(ほんだまげ)”があり、これは月代(さかやき)を髷の内側まで剃ってその堺をなくし、元結(もっとい)は三つより多く巻かないようにした、坊主だか野郎だか分からない髪型だということで、疫病本多などと呼ばれました。これは本多忠勝の家風から来たとされるのですが、三田村鳶魚はその著書『江戸ッ子』のなかで、どうも肴屋の方から来たらしいと述べており、本多髷は実は本田髷で、本小田原町の本と田をとったのではないかとしています。
 それから、着る物にしても、魚河岸では着物の下に「紅襦袢」を着て意気がって見せるのを常としましたが、これを芝居が真似たことで、いわゆる男伊達の風俗として流行し、やがて定着していったといいます。
下駄の流行も小田原町からだったと鳶魚翁は書いています。元禄年間の魚河岸は繁盛を重ねていましたから、路面は一年中乾くひまがなかった。いつも雨後のぬかるみの様だったから草履で歩くことをきらった魚河岸の旦那衆がいつも下駄を履くようになりました。これが島桐の目の細かい台に樫の歯を入れた上等品に、わざわざ革の鼻緒をすげ換えて目立つようにしてありましたから、これがとても格好良く見えたといいます。小田原町の連中は河岸引けになると下駄のまま晴れ空のもと、遊びに出かけたのですが、世の通人といわれる人たちがこれを真似して晴天でも下駄を履くようになったそうです。もっとも、鳶魚翁は享保年間(1716〜1736年)以降になると魚河岸の景気も下火となり、商いも少なくなって路面が乾いたので、草履履きでも平気になったとも書いています。