初鰹 五両してもかまわぬ


 消費景気によって魚の価格がはねあがりますが、なかでも勢いの良かったものに初鰹の値段があるでしょう。初鰹の景気というのがいつの頃からはじまったのかはっきりとしませんが、元禄の頃にはだいぶ高くなり、天明期(1781〜1789年)にピークに達したものといわれています。
  高い物の親玉初鰹 五両してもかまわぬ
これは文化十年(1813年)に流行った「かまわぬ尽し」という歌の一節で、五両とはずいぶん高い気もしますが、それでも実際に最盛期には二、三両はしたそうです。
  初鰹袷を殺す毒魚かな
 この句は、江戸っ子の気性を言い当てたものとして三田村鳶魚が紹介しています。初鰹の出る季節にはもう袷の着物は必要ないと、これを売り飛ばして一尾を買い求めるなどという見栄は、江戸ならではのものでしょう。
初鰹はもちろん魚河岸にも出回りましたが、新場の方が江戸前の芝魚を扱うことを売り文句としていましたから、より盛んだったようです。初鰹を運ぶ押送舟(おしょくりぶね)は夜着きました。後にこれが猪牙舟(ちょきぶね)となり、さらに馬で運ぶ陸送もはじまって、海と陸が競争するように届けたといいます。
河岸に揚がった初鰹は、先を争うように取引され、大急ぎで市中に売りに出されるのですが、初鰹売りというのは、とても気が強くて侠客のようだったそうです。言い値で買わないで値切るような客には絶対に売らない。「わたしは売りたいけど、魚がいやだというのでね」などと悪口を言って行ってしまいます。

 さて、三田村鳶魚の『庶民の食物志』のなかには、紀伊国屋文左衛門のエピソードが書かれています。面白いのでご紹介しましょう。

 「あるとき紀文が吉原の大店を仕切る重兵衛というものに、今年はぜひ初鰹を吉原で食いたいから、何とか江戸に一本も入らないうちに料理して食わせるようにしてくれ、と頼んだ。重兵衛はすべての肴問屋に前金を打って、鰹の荷をすべて押さえた。そうして紀文が大勢をひき連れて吉原へやってくると、たった一本の鰹を料理して出した。ところが、大勢なのであっという間に食べてしまった。皿をながめていても仕方ないから、もっとないのかと催促するけれども重兵衛は出さない。紀文はもどかしくなって、何故後を出さないのかというと、重兵衛は大きな箱のフタを取って、鰹はこんなにありますが、初鰹は一本のみです。残りはあとで皆にやってしまいますと言った。紀文はこれを聞いてむしょうに嬉しくなり、当座の褒美だとかれに五十両を呉れた」

 これが幕末になると、鰹の御注進というのが義務づけられるようになります。魚市場にはじめて鰹が着いたときには、幕府に届けて、これを上納したのちでなければ、市中に販売してはならぬ、ということになり、次第にむやみな景気も収まっていきます。