鯛と鯉の御用役


 多くの魚のなかでも鯛と鯉は御用魚の主力でしたから、活鯛問屋および鯉問屋はそれぞれ員数も決まっていて、魚河岸のなかでも特別な地位にありました。
 これまで活鯛問屋については、元和二年(1616年)に大和屋助五郎が江戸に出てきて、大規模な活鯛流通システムをつくりあげたことをみました。大和屋は創業から百年以上経った天明の頃には、関東、東海から四国に至るまで幅広い敷浦を持ち、活鯛御用はいよいよ大和屋の独占となって、その絶頂期を迎えようとしていました。これについては、あとで詳しくみてみたいと思います。
 そして、鯉の方はというと、宝永元年(1704年)の武鑑に鯉御用役として、本小田原町一丁目 尾張屋二郎右衛門、伏見屋作兵衛、鯉屋小兵衛の三人の名前がありまして、享保十七年(1732年)の武鑑ではここから尾張屋がはずれ、伏見屋と鯉屋の二人になっています。
 ここで伏見屋作兵衛は森孫右衛門とともに江戸に下った井上作兵衛の子孫であり、鯉屋小兵衛も同じく森一族の一人井上与市兵衛の三代目にあたり、鯉のお役目にあたって鯉屋を名乗ったものです。すなわち鯉御用は森一族ゆかりの摂津系問屋がつかさどっていたことになります。これは森一族の本国である摂津大和田村が「大和田の鯉のつかみどり」といわれるほどの名産地だったことも関係あります。

 『百年』は鯉御用役の特権について次のように述べています。
 鯉は出世魚として武家に珍重され、幕府でも正月三ヶ日の料理に欠かせないものであり、法会には放生の行事というのがあって、芝増上寺の池に鯉を放ちました。また、大奥で出産があると、二十一日間、子持ち鯉のかたちを揃えて毎日上納するというのが決まりでした。大名や旗本なども、男子出産や元服の行事などに鯉を食べる風習があるなど、武家を中心に多くの需要がありました。
 鯉の値段というのは、幕府御用の場合、大小にかかわらず一尾八十文しかもらえなかったのですが、大名、旗本の御用聞きでは、一尾一両から一両二分といった法外な高値となりましたので、それがために鯉御用というのは、たいへんに儲かり、幅のきく役目でした。
 鯉御用で最も顔を売ったのが鯉屋庄五郎で、この人は鯉屋小兵衛の次の代と思われますが、鯉上納のお籠に幕府御用という大きな提灯をつけるのが習慣で、さらに納入時だけでなく、普段もこの提灯を手にして意気揚々とねり歩いたといいます。また、鯉屋庄五郎こと鯉庄を染め抜いた襦袢をつくり、これを着ていると城内本丸や西の丸、増上寺の一部の出入りが自由であったといわれ、これでみても鯉御用役が大きな権限を持っていたのがわかります。また、江戸市中で鯉を商う者は、鯉庄の顔色をうかがわねばなりませんでした。貫三といって鯉の代金一貫(一両の四分の一)に対して三百文ずつの冥加金を鯉屋に支払ったという記録もあります。
 鯉庄の生簀(いけす)は深川にあって、ここに鯉を囲っておき、毎朝、魚河岸に舟で運んでくるのですが、もしも大水などで深川の生簀が流れてしまうとか、臨時のことで鯉の数がそろわない場合には、町奉行の許可を得た上で、江戸市中どこの家の池からも鯉をとって良いというとんでもない特権を与えられていました。相手がこれを拒んだり、鯉を隠したりすると、鯉庄の若い衆が夜中にその者の家の外に立っていて、鯉が池ではねる音をききつけると、これを襲って持って行ったといいます。
 しかし、庄五郎がしりぞくと、鯉御用役もおとなしくなり、このような乱暴な振舞もきかなくなったそうです。