元禄大地震とその影響


 元禄十六年(1703年)十一月二十二日は、夕刻より稲妻が空を真昼のように明るくし、江戸の人びとは、しきりに不安がっていましたが、ついに夜半になってドロドロという不気味な地鳴りとともに、大地が大きく震え出しました。房総南岸沖を震源とする推定マグニチュード8.2の元禄大地震の襲来です。
 新井白石は『折焚く柴の記』に烈震の模様を詳しく記しています。

 「我はじめ湯島に住みしころ、癸未の年、十一月二十二日の夜半過ぎるほどに、地おびただしく震ひ始て、目さめぬれば、腰の物どもとりて起出るに、ここかしこ戸障子皆倒れぬ。妻子共のふしたる所にゆきて見るに、皆々起出たり……道にて息きるる事もあらめと思ひしかば、家は小船の大きなる浪に、うごくがごとくなるうちに入て、薬器たづね出して、かたはらに置きつつ、衣改め著しほどに、かの薬の事をば、うちわすれて、走せ出しこそ、恥ずかしき事に覚ゆれ。かくてはする程に、神田の明神の東門の下に及びし此に、地またおびただしく震ふ……おほくの箸を折るごとく、また蚊のなくごとくなる音のきこゆるは、家々のたふれて、人のさけぶ声なるべし。石垣の石走り土崩れ、塵起りて空を蔽ふ……」

 これは白石が甲府の徳川綱豊(のちの将軍家宣)に仕えていて、地震と共に湯島の自宅から日比谷門外の藩邸へかけつけたときのことを書いたもので、突然の揺れに市中が混乱し、自らも取り乱している様子があらわれています。
 地震の翌日未明には、江戸市内に火災が発生。本郷追分より出火した炎は、谷中までを焼き、その後再び小石川より出火、北風にあおられて上野、湯島、筋違橋、向柳原、浅草茅町、神田、伝馬町、小舟町、堀留、小網町と焼きつくし、さらに本所へ飛び火して回向院から深川、永代橋までを焼いて、両国橋は西の半分が焼け落ちました。
 地震の被害は、江戸よりも震源に近かった小田原や房総周辺に集中し、とくに地震発生と共に相模湾と房総半島東岸を襲った大津波により二千人を超える溺死者が出ました。房総半島南端では、地面が五メートルも隆起し、島だった野島は陸続きとなり、現在の野島崎となります。
 震災地全体での潰家は二千、死者はおよそ五千二百人にのぼり、幕府では応急処置として流言を取締り、大寺大社に天下安全を祈らしめ、当時「生類憐れみの令」により町方に負担させていた「犬扶持」を免除することにしました。また、この地震によって年号が宝永と改められます。

 魚河岸では、周辺の町が被災するなか、大きな被害を出さずに済みました。しかし、生産地の被害は甚大で、房州の各浦では、ちょうどイワシの豊漁期のため、沿岸の納屋集落が漁師もろとも大津波にのまれたことで、出荷はもちろん中断し、人的、物的損失は深刻でした。魚問屋では各浦に仕入金を渡して、漁船や漁具の資金としていましたから、この災害であらたな資金調達を迫られることになったのです。
 なぜか魚河岸は、自分のところの被災には強いのですが、産地の被災にはめっぽう弱いという特性をもっていました。明暦の大火をはじめ、たびかさなる火災に何度も全焼の憂き目にあうのですが、すぐに再生します。焼けても、どうということのない安普請、何となれば野天でも営業出来るし、それに店借りの身ですから、財布を痛めるのは大家ばかりという考えです。しかし、浦方から入荷が途絶えてしまえば、もうどうにもなりません。そういう意味で元禄地震は魚河岸に多大な損害を与えたというべきでしょう。

 この地震に先立って、江戸では元禄十一年と十五年にも大火に見舞われており、さらに宝永四年(1707年)には、東海地方の大地震とそれに続く富士山の大噴火があり、打ち続く大災害によって、さしもの元禄の消費景気も冷え、世の中は低成長期に入っていきます。そして、ここにいたって幕府財政は危急の状況を迎えることとなり、緊縮財政の必要が求められ、その結果として、享保の改革が断行されることになります。