幕府の納魚助成


 元禄時代のインフレに拍車をかけたものとして、元禄八年(1695年)の貨幣改鋳が原因のひとつとしてあげられます。それまでの基準であった慶長期のものに比べ、粗悪な金銀を改鋳することは、幕府の悪化する財政に対する、いわば一時しのぎの施策だったわけですが、これが極端な物価高をうながすことになります。本来ならインフレ打破のために、ここで金銀の質を戻したいところですが、相次ぐ天変地異のあおりを受けて財政はさらにひっ迫し、その結果、宝永年間(1704〜1711年)にも二度にわたる改鋳を行い、さらに質を落とすことになります。特に宝永八年(1711年)に改鋳された四宝字銀は、通称「土芥(つちあくた)」といわれたほどに評判の悪いものでした。
 そんな事情もあって、元禄期に高騰した物価は、宝永期を通じてなかなか下がる気配を見せません。およそ十年ほどで米価が倍になったのに比べ、庶民の賃銀や手間賃はたいして上がりませんから大変苦しい家計となります。ところで米の値段が上がると皆が苦しいかといえばそうでもなく、俸禄、つまり給料を米でもらっている武家は、食べるに困らない上、その米を金に換えれば時価なので、かえって都合が良いということになります。

 さて、魚河岸では諸物価が上がっても、元禄期の消費景気の頃と比べて高い魚が飛ぶように売れるということはありませんし、そればかりか幕府に対しては相変わらず安値で上納しなければならないので、そのギャップは損失として、年を追うごとに大きくふくれあがっていきました。
 そこで、最初は本材木町の新場が幕府に助成の願いを申し入れ、これに続くかたちで日本橋本小田原町組も訴願に及びます。ここで本小田原町組が単独で願い出たのには、同組が相変わらず納魚について強い権限を持っていたとも考えられます。この訴願は宝永元年(1704年)に出されたものと思われ、それから丸一年、老中出座による慎重な裁定が行われます。
 幕府としては、魚河岸は納魚を前提として成立している上、公租公課も免除されるのだから、上納は当然のことであるという考えではありましたが、これまで納魚が滞ったことはなく、ここでそれが止まってしまっても都合が悪いということになり、結局、宝永二年(1705年)、魚河岸に十一ヶ所、新場に五ヶ所の助成地を与えることにしました。この助成地というのは、通常、あたらしい町割などでいちじるしく不利な土地へ移されたものに対して代替地として与えられるのですが、この場合は、助成地の地代や家賃収入をもって納魚の助成に充てるという特別な措置でありました。

 ここで魚河岸が拝借した助成地についてみてみますと、日本橋音羽町、富沢町、新材木町、南大工町、神田旅籠町、同二丁目、永井町、霊岸島銀町、赤坂一ツ木町、赤坂新町、四谷伝馬町一丁目の十一ヶ所で、のちに神田旅籠町、霊岸島銀町、赤坂新町の三ヶ所がそれぞれ紺屋町と神田多町、同二丁目へと替地になりました。これらの町の沽券地としての価値は、合計で三千六百七十八両一分と記録されており、ここからの年間収入は、町内入用などの経費を差し引くと、おおよそ二百八十六両と銀五匁六分七厘になり、それなりの助成を果たしていたと思われます。
 ともあれ、これまで当然のこととされてきた納魚に対して、幕府があらためてその負担を認めて制度上の助成を設けたということは、魚問屋にとってはありがたいことではありました。しかし、ある種の信頼関係で行われていたことが制度上のものとなった時点で納魚はすでに義務と化し、次第に幕府が魚を取り上げるというかたちに変容していくことになります。助成地は宝永二年より享保四年(1719年)までの十五年をもって返還されますが、それは納魚に「請負人制度」が導入されたからです。これは特定の請負人に納魚の一切をまかせるというものなのですが、これについては後述します。
 それから、これより六十年も後の安永七年(1778年)になりますが、本船町組が一万両を拝借するということがありました。助成地のときは、本小田原町組に許されたものが、このときは本船町組が対象となったということは、この六十年間に納魚の主体が本小田原町組から本船町組に移ったのかもしれません。一万両の借入は、毎年一割(千両)の利息を上納するということになっていましたが、返済については決められておらず、結局は何年か利息を納めただけで、元金は貸し下されとなったと思われます。
 問題になったのは、この拝借金が本船町組単独で願い出たということで、ぬけがけを食ったほかの三組もさっそく拝借金を願い出て、安永九年(1780年)に千五十両の貸付金を拝借しました。やけに半端な金額は、いかにも値切って貸し付けたという印象ですが、先の本船町の一組に一万両と比べれば、三組で千両余りというのはあまりにも差が多すぎます。これは察するに、すでに市場内の取り扱いに差が出ていて、高級魚は本船町組で取り扱い、それ以外の三組問屋では市販用の惣菜魚が多かったということではないでしょうか。いずれにしろ、それまで何事も四組問屋が合議の上で決めていたことが破られたので、組合では内紛に近い状況があったのではと推測されます。


〜〜〜 大岡越前魚河岸政談 その1〜〜〜
〜〜〜四組法式書の統一 〜〜〜


 享保元年(1716年)五月、徳川吉宗が八代将軍となり、これまで重用されてきた間部詮房、新井白石らを罷免し、官僚制の整備、旗本・御家人の財政救済、年貢増収、商業資本の統制などを目的とする享保の改革を断行します。
 吉宗は改革推進のために多くの人材を幕府の要職に登用していきますが、なかでも享保二年二月に南町奉行に就任した大岡越前守忠相は、その代表的なひとりで、後世に名奉行の誉れ高いかれの治績は“大岡裁き”としてあまりにも有名です。
 大岡越前守は、魚河岸に対しても数多くの裁定を下していて、それらは市場機能の方向性を後々まで示すような名裁きなのですが、一般にはあまり知られていないのが残念です。そこで、ここはひとつ時代劇風に名奉行の魚河岸裁きを、年代を追ってみることにしましょう。

 享保三年(1718年)、南町奉行大岡越前守の第一回吟味にあたり、同奉行所より日本橋魚問屋の月行事に突然の出頭命令があり、会所の総代らに緊張が走ります。
 「またぞろ吟味とはおだやかではないですなあ」
 「大きな声では言えませんが、脇揚げもだいぶ横行しておりますし……」
 「いやはや、大事にならねばよいが」
 「ところで、今度のお奉行様はどんな方なのでしょうか」
 魚問屋たちが心配するうちに奉行所出頭の日がやってまいりまして、両組月行事が奉行の前に並びます。
 「大岡越前守忠相様御成り、一同おもてを上げませい!」
 一同が頭を上げますと、物静かそうな顔がこちらを見下ろしています。その眼は大きくはないけれど、物事を見透かすような鋭さがあり、きりりと結んだ口元には、えもいわれぬ気品を漂わせています。魚問屋らは皆、奉行の威厳に満ちた顔つきに恐れ入り、思わず「はあ」とため息をもらしてしまいました。
 「魚問屋各組月行事一同、御城内納魚並びに屋敷方納の儀につき吟味いたす」
 ぴんと張りつめた空気を切り裂くようなひと声に、一同「そら来た」と身をこわばらせました。ところが次の瞬間、奉行の顔が突然ほころび、気さくな調子で話しかけてくるのに意表を突かれてしまいます。
 「朝起きは三文の得とか申すもの。そちらは早朝より業務によく励み、お上への魚献上、つねに不足なきことは、真にほめられることであるぞ」
 あ、これは話の分かるお奉行だ。魚問屋らは経験からすぐにそう感じました。これまで何人もの町奉行の達しを受けてまいりましたが、中には魚問屋連中を毛嫌いして、ずいぶん難くせをつけてくる人もいたのです。
 「しかし、そちらが五組問屋に分かれ、本船町に古組と大組があるのは解せぬことだな。そもそも統一の法式書がありながら、別の商法というのも何かと不都合。大切な納魚にも差し障りがあろう。そこで奉行より、本船町両組の合併並びに法式書の徹底を申し渡す」
 この吟味に一同はっとしました。寛永二十一年(1644年)の法式書制定以来八十年以上を経過し、その間に元禄の繁盛期の混乱で法式書は形骸化していき、今では各組合がそれぞれの事情によって取り決めを行っていました。脇上げなどの納魚逃れなどが止まないのも、魚問屋の統一した法があやふやになっていたためともいえます。
 大岡越前の魚河岸裁きの手始めは、長年にわたって魚河岸に堆積していた問題を一言のうちに片付けたという見事な手際でありまして、これによって本船町古組と大組はひとつになり、後には古法式書を手直しするかたちの統一した四組法式書が制定されるに至ります。




〜〜〜 大岡越前魚河岸政談 その2〜〜〜
〜〜〜仲買人どもに申し渡す!〜〜〜


 それは享保十二年(1727年)四月十二日、本船町麻店前で起きました。かねてより店先を借りている魚市場仲買人と麻店家主との間でトラブルが絶えなかったのが、この日の朝に激しい口論となり、ついに刃傷沙汰にまでおよんだのです。

 「なに言いやがる、このべらぼうめ。こちとら、鮮魚の目ン玉見ながら商売してんだ。魚がもういいと言わねえうちから店じめえしろたあ、どういうわけだい!」
 「ぞんざいな口を聞くじゃないか。お前さん方には朝六ツまでという約束で店先を貸しているんだ。それも不都合があれば何時でもお返ししますという一筆も入っている。文句があるなら出ていって貰おうじゃないか、ええ。こちらは閑漁期で商売も忙しいんだ。さ、出ていってもらおうか」
 「何だと、このきんかくしの因業め。閑古鳥鳴いてる手前ンとこの店先を使ってやってるだけ有りがたいと思え。言ってみりゃ、ここは天下の大道だ。生き馬が目ン玉抜かれても三町歩かねえことにゃ気がつかねえ魚河岸のど真ん中だ。うろうろしてるてえと、向う脛かっぱらうぞ」
 「ひ、ひどい事を。おい、みんな出といで。さあ早く、仕事はいいから、出てきてこいつをどうかしておくれ。たかが“あかとり”の魚屋風情になめた口聞かれるじゃないよ」
 店主の呼び声を聞きつけて、店の中からバラバラッと若い衆が出てまいりして、仲買人を取り囲みます。
 「ふん、出てきやがったな、船底大工のなりそこないども。お前らみたいなサンピンの相手になるようなお兄いさんとは訳がちがうぜ」
 この騒ぎに周囲の仲買人たちもかけつけて来ると、麻店前では敵味方に十数人の連中がくんずほぐれずのこずき合いを始めます。もとより本気の喧嘩ではないのですが、その時仲買の持っていた手カギがひょいと麻店若い衆の足をえぐったから大変。ざっくりと切れた膝がしらから血が吹き出してきたから、すわっ刀傷事件だと、店主は奉行所に訴願、「大岡裁き」に持ち込んだのでございます。

 ここにいう麻店というのは、本船町が町人地に町割されたときに、この地域に先に住みついた船具商のことで、後に本小田原町にいた魚問屋らが、この地域の河岸地という好条件を得たくて、徐々に進出してきて、今では本船町の多くは魚問屋に占拠されるかたちとなりましたが、それでも昔からの麻店が少数ながら残っていました。
魚問屋は当初地借りや店借りというかたちで、空き家などに正規に入り込んだのですが、いつのまにか夜明け前に麻店前の公道に板舟を置いて商売をするようになっていました。
 「近年、本船町地引河岸麻店前にて、明六つ迄という約束で魚市場仲買が魚売買を始めたが、時間を過ぎても売買を続け、のみならず往来へ荷を出張って道を塞ぎ、耳障りな大声で叫ぶ、暴れるなど不届きな行状、さらに今回の刃傷沙汰に対する訴えにつき吟味いたす」
 大岡越前守はぎろりと仲買人らを睨みつけると、いつになく厳しい口調で言いました。
 「平生より魚河岸はおびただしく混み合っていて公道をふさぎ、その上、売人らの風俗がきわめて悪く乱暴の多いことは奉行も聞き及んでいる。かねがね戒めようと考えていたところである。そこで仲買人ども、お前たちに申し付ける。魚河岸での商売は古来の定法どおり道へ出張らぬこと、麻店前で営業している者はただちに場所を明渡すこととせよ」
 これで困ったのは営業停止を食らった仲買とかれらをかかえる問屋たちです。さっそく会所に集まって協議の上で、
 一、 夜明け前に限って営業すること
 一、 往来には出張らないこと
 一、 武家方がご通行の折には無礼をしない
 一、 喧嘩口論は禁物とし、もしも口論が起こったときは仲間一同で立会いすぐに静めて町内の迷惑にならないようにする
 一、 ごみは往来へ掃き捨てず掃除を怠らない、
 以上事柄を問屋、仲買、小売の者ども協議の上違反させない、万一みだらなことあれば、いずれへ訴えられても異議はない
という魚問屋連判状を作成して家主へ差し入れました。
 魚問屋側よりわび証文が出されたことで、今回に限り麻店前の営業を再開してもよろしいということになり、奉行所よりその旨のお達しがあります。これで魚河岸の連中はほっと胸をなでおろしました。結局はこのお裁き、麻店側が一方的に勝訴したかに見えますが、実のところ、かれらは魚問屋、仲買からある種の店賃のようなものを受け取っていたことは間違いなく、それは店前の占拠であるとか、早朝から客寄せの大声による安眠妨害といったことに対する迷惑料といったものでしょうが、いくらかでも貰っているから妥協しないわけにはいかない。奉行もそれを知っていて、一時的に営業禁止措置をとることで魚市場の秩序を回復しようという、いわばひと芝居打って魚問屋らを威嚇したというのが本当のところでしょう。人情味ある「大岡裁き」によって、麻店と魚河岸の長年の対立を丸くおさめたともいえます。
 この争いを契機として、仲買の営業権がクローズアップされることになり、「板船権」というものが出てきます。これは仲買人にとっては魚を売るための板船を軒先に広げるための権利であり、麻店にすればその場所代を得る権利です。「板船権」の確定で仲買人の権利も明確化するわけで、それまでの問屋の従属から独立して、問屋業務と仲買業務の分業化がはじまることになります。
 ところで、これより二百年以上も後のことになりますが、魚河岸が日本橋から築地へ移転するにあたり、この「板船権」の補償をめぐって、魚河岸側が代議士に賄賂を贈ったことが発覚したことによる、いわゆる「板船権疑獄」が起こります。これは昭和の三大疑獄事件のひとつといわれるほどの大騒動なのですが、その根源をたどれば、享保時代の「大岡裁き」に行きつくわけで、ささいな口論が、世の中をひっくり返す大事件にまで至るという、講談の「大岡政談」でも語られなかった逸話がそこにはあります。



〜〜〜 大岡越前魚河岸政談 その3 〜〜〜
〜〜〜言い方を間違えた〜〜〜


 魚河岸の日本橋川沿いの河岸地には「納屋」と呼ばれる長屋風の倉庫が建っていました。納屋には通りに面した表納屋と川側の裏納屋があって、ともに魚を貯蔵する場所でしたが、表納屋は売場も兼ねていました。もともと日本橋川沿いには様々なかたちの納屋が建っていたのですが、将軍の遊漁、遊覧のための川お成りにあたって、たいへん見苦しいということで、寛文五年(1665年)、当時の町奉行渡辺大隈守の指示により、整然とした一棟が建てられたものです。
 納屋は荷揚げに利便であったので、どの魚問屋も欲しいのですが、その数は限られておりましたから、所有者は「納屋持ち」といわれて、ある種特権的な株となっていました。ところが河岸地というのは御用地でありましたから、すべて自分たちの自由にするわけにはいきません。出来ることならこの場所を自分たちのものにしたい、そんな思いをずっと持っていたことでしょう。
 享保十三年(1728年)関東一円が飢饉に見舞われ、各地で百姓一揆が多発、さらに十五年(1730年)には、打ち続く不況を反映して、江戸では地代や家賃の引き下げを求める庶民の声が高まっていました。そのような世情を受けて、魚河岸はかねてより希望としていた河岸地の拝借を願い出ます。
 これは、冥加金として三千両を幕府に上納するかわりに、河岸地を十年間拝借したいというものです。三千両とは、ずいぶんと高額なようですが、一度拝借してしまえば、後は既得権的にずるずると借りられるだろうという思惑があったのかもしれません。
 訴願は、町年寄奈良屋役所での評議ののち、魚河岸の地主、家主、魚問屋どもが奉行所内寄合へ呼ばれて吟味となりました。
 大岡越前守はいつもの鋭い眼で一同を見すえて、こう質しました。
 「その方らは三千両もの金を上納するというが、はて、どういうことであろうな。十年に限って借して欲しいというのか、それとも」
 にやりと笑って、
 「永久に使用したいというのか」
 このときカマをかけられたのに気づかない魚問屋側が、
 「それはその、永代にわたってお借りしたいものです」
 などと答えたものですから、とたんに町奉行の顔が険しくなり、「それならば、あやふやな願いでなく、書面できちんと申し立てよ」と言い放ち、憮然として奥へと引っ込んでしまったといいます。
 結局のところ「河岸地は地主どもの土地でもなく、魚問屋どもに下されるものでもない御用地である。願いの儀は聞き入れることはまかりならぬ」として訴願は却下されてしまいました。
 魚河岸では、十年間お慈悲でお借しくださいといっても通るかどうか分からないのに、拝領したいなどと不埒な願いと取られても仕方なかった、と反省しましたが、あとの祭りです。いわば名奉行の眼力の前に、手もなくひねられたかたちとなったわけですが、いざというときに、ついポロリと本音が出てしまう正直者の魚河岸気質は、いつの時代でも失敗をくり返していくわけです。



〜〜〜大岡越前魚河岸政談 その4〜〜〜
〜〜〜魚屋は鳥を売ってはならぬ〜〜〜


 明治に入るまで日本人は畜肉類を食用に供することはほとんどなくて、一部で薬用として食べられているくらいでした。わずかに鳥肉だけがごくまれに食膳に乗せられることがありましたが、それも大した需要ではありません。
 江戸時代、鳥肉商は安針町に多くて、鳥会所も設けられていましたが、鳥肉商の株が確立されたのは、享保十年(1725年)のことで、このとき許可された件数は水鳥問屋六人、岡鳥問屋八人の計十四人のみでした。
 当時、鳥屋の専業というのは大変だったようです。それでなくても需要の少ない商売だったうえに、魚問屋、青物問屋らが兼業で鳥肉を扱うケースが多かったからです。幕府に納める分に関しては、鳥問屋たちが一手に引き受けていましたが、大名や旗本などの屋敷納めの方は魚問屋、青物問屋が押さえてしまっていて、武家屋敷の方でも注文を魚問屋らに出していました。魚問屋は注文に応じて、鳥問屋から仕入れて屋敷方に納入するのですが、多めに仕入れた分を勝手に売買するということで、鳥問屋は大変に困り、ついに奉行所に訴え出たのです。
 訴願を受けた大岡越前守は、享保十一年九月二十七日、魚問屋並びに青物問屋総代を呼びつけ、
 「魚問屋並びに青物問屋が鳥肉を売買することは相まかりならぬ」
 と言いわたして禁止令を出します。
 ところが、これがあまり効果がありません。
 そこで、十一月二十二日、再度吟味となり、
 「よいか、ふたたび申しつけるぞ。魚問屋、青物問屋が鳥を売ってはならん」
 再度言いわたして決着をつけました。しかし、これまた守られません。
 「何度言わせるのだ。鳥を売ってはいかん」
 ついには温厚な奉行も怒り出す始末です。
 どういうわけか、たびたび禁止令が出されても、魚屋が鳥を売るという旧弊はなかなか直らなかったようで、近代に至るまで鳥屋という商売が発展しなかったのですが、それは魚河岸のせいだったともいえます。



〜〜〜大岡越前魚河岸政談 その5〜〜〜
〜〜〜おイモ先生奮闘記〜〜〜


 本船町に佃屋半右衛門という魚問屋がありました。そこの長男である文蔵は、小さい頃から大の学問好きだったので、父半右衛門はかれに家業を継がせることを早くからあきらめ、好きな勉学を修めさせるために、我が子を京都に上らせました。
 そこで文蔵は、儒学者で古義学派の創始者である伊東仁斎の子、東涯に古学を学び、名も青木昆陽と改めました。その後江戸に戻り、享保六年(1721年)、八丁堀に塾を開きます。
 昆陽は、かねてより島流しになった罪人が食べ物がなくて、多数が餓死するということを聞き及び、離島での栽培植物として甘藷(さつまいも)に注目しました。これを発端として、凶荒対策として甘藷をと説く「蕃藷考」を著すこととなり、その普及に努めます。
 これが八丁堀の名主加藤枝直の目に止まり、かれの推薦により大岡越前守に「蕃藷考」が提出されると、すぐに奉行お目通りということになりました。
 「そなたが青木昆陽であるか」
 そう尋ねたとき、奉行は思わず笑いをもらしそうになりました。というのも、昆陽が世間から「甘藷先生」などと呼ばれていると加藤枝直から聞いていたのですが、いま目の前の「あばた」だらけの顔を見ると、まるで「おイモ」そのものだったからです。その頃、江戸では「あばた」のことを「イモ」といっていました。
 しかし、昆陽はそんなことにはいっこうに気にせずに、奉行に対して、甘藷栽培の重要性を得々と説き続けました。その熱心さと知識の深さに感じ入った奉行は、すぐさま、八代将軍吉宗に「蕃藷考」を手渡します。かねてより殖産を施策の柱としていた吉宗公は、大岡越前守を通じて昆陽に甘藷の栽培実験を命じ、小石川御薬園、現在の小石川植物園において甘藷の種を栽培、これを伊豆七島、八丈島、佐渡島などに送り、その培養を奨励します。
 昆陽はその後、吉宗の命により蘭学を始めることとなり、江戸参府の蘭人を宿舎に訪ねて質問、その成果を「和蘭文字略考」「和蘭文訳」などにまとめました。その仕事は、前野良沢に引き継がれ、蘭学興隆の基礎をつくります。
 大岡越前守は、昆陽の研究が実を結ぶころには、すでにこの世を去っていたのですが、それでも初対面のときの「おイモ顔」が忘れられず、生涯気にかけていました。大名並として屋敷を賜ってからも、時々は昆陽のことを思い出して、「おイモ先生は頑張っているかなあ」などと側近にもらしたといいます。
 昆陽は明和六年(1769年)に没します。生前に目黒不動の裏手に自分の墓を建て、「甘藷先生墓」と自分で書き入れました。



〜〜〜大岡越前魚河岸政談 その六〜〜〜
〜〜〜川浚いで魚河岸移転〜〜〜


 江戸時代を通じて日本橋の地で営業を続けてきた魚河岸ですが、ほんの数ヶ月間だけ別の場所に移転をしたことがありました。
 それは、享保十八年(1733年)に日本橋川の川浚いが行われるにあたり、大岡越前守の特例によって、「両国橋向広小路ニ於テ仮売場」の設置が許可され、同年六月から九月までの間、魚河岸が移転したというものです。
 両国橋向広小路というのは、両国橋を渡った本所側で、現在の回向院の寺域で川に面した火除地ではなかったかと『歴史』は推定しています。そして仮市場の施設は、魚納屋を設けて本船町河岸と同じく問屋に割渡し、十七ヶ所の井戸を整備して、それら全部の経費は、各問屋の取扱高に応じて徴収したといいます。
 ところで、この川浚いというのは、前年にイナゴの大発生により作物の凶作が起こったために、一種の失業者対策として行われたものだといいます。十五歳から七十歳までの者を人夫として雇い、一日五十文の給与が支給されました。
 さて、川浚いもつつがなく終わると、十月には魚河岸も日本橋に帰ることができました。四ヶ月間の本所での営業がどうだったのかという記録はありません。おそらく売上げの減少する夏季ということもあり、大した差もなかったものと思われます。
 そして、今回のお裁きを最後として、元文元年(1736年)八月、大岡越前守は十九年間勤めた町奉行職を辞し、寺社奉行へと昇進します。ここまでみたとおり、一般には知られていないものの「大岡裁きと魚河岸」とは浅からぬ縁があり、この期間、魚河岸にとっては、温情ある行政のもとでの幸せな時代であったと思います。