板舟権の確定


 魚河岸のメインストリートである本船町は、町割が出来たときには麻店(船具商)が営業を許可された場所であり、後に魚河岸がその規模を拡大する際に、河岸地で荷揚げに都合の良い場所ということで、徐々に麻店を侵食するかたちで入り込んでいったという経緯があります。しかし、数は減りながらも、麻店は従来通りの営業も続けていたため、仲買人は早朝までという条件で、その店先を借りて商売をしていました。ところが、魚河岸の仲買人というのは、何といっても「いさみ肌」をかざす商売ですから、乱暴な振舞いや往来をふさぐ行為、時間が過ぎても営業を続けるといったことで、麻店側とたびたび争いがあり、特に享保十二年(1727年)四月には、刃傷沙汰の騒動にまで発展、名奉行大岡越前の裁きにより、魚河岸側は「喧嘩をしない、道に出張らない、時間を守る」等の一札を入れて何とか事無きを得た、ということは前にみました。

 しかし、丸く収まったかにみえた魚河岸と麻店との関係は長続きせず、十四年後の寛保元年(1741)には、問題が再燃いたします。
 享保十二年のときには、争いの直接の原因は、魚河岸と麻店との口論からはじまったと言われていますが、今回は特に荒っぽい事件が起きたということではないようで、たぶん魚河岸側は奉行所に一札を入れた通りに、しばらくはおとなしく営業を続けていたのでしょうが、当時は不況が長く続いたことで、問屋間の競争が激化し、結局は最初の状況に戻ってしまったということでしょう。麻店としては何度も魚問屋と話合いをしましたが、解決には至らず、約束を破られたも同然ですし、何しろ魚河岸側は先に一札入れていて立場は弱かったということもあって、寛保元年六月十二日、当時の南町奉行石河土佐守正民に対して「店前における魚商引払願い」の訴えを起こすことになりました。
 町奉行石河土佐守は、この一件を直接は取り扱わずに、本船町名主太郎兵衛と家主の仲裁に委ねます。これは店子である麻店と公道使用の魚河岸の争いであったからで、名主と家主らは双方の言い分を聞いた上で、魚河岸側に具体的な協定書を差し出させることとしました。前回はわび証文というかたちでしたが、今回はもっと具体的な取決めとなりました。

 なかでも重要なのは、仲買人の公道使用許可証として「板船権」が確定したことです。
 板船とは仲買人が魚を並べる台のことですが、この大きさが間口四尺五寸と定められて、板船一枚あたりの庭銭は一ヶ月銀十三匁五分と決定されました。
 四尺五寸はメートル法に換算しますと約1.4メートル。これが銀十三匁五分というと銀六十匁で金一両の計算ですから、約四分の一両弱ということになり、これは当時の物価などからすると、ずいぶんと高い借り賃だったといえるでしょう。
そして、その支払先は家主ではなく、店子として営業している麻店の方でした。したがって、「板船権」は仲買人からすれば営業権ということになり、場所を貸している側からすれば使用料を徴収する権利となります。この二面性がずっと後になって市場移転案が浮上してきたときに、その補償に対して大きな問題となるのですが、それはさておき、「板船権」の確定によって、仲買人はそれを有することで自由に商売が出来ることになり、それまでの問屋従属のかたちから離れて、独立して営業する者も現れるようになります。結果として問屋と仲買の分業化のはじまりということになるでしょう。