行政の横やりで右往左往


 いつの時代にも扱いにくい役人はいるものです。やけに実直だったり、口やかましかったり、あるいは横柄だったりと、生態もさまざまですが、どれも権威をふりかざす点では同じようなものです。江戸時代の魚河岸も、ものの分かっていない役人の介入で、大迷惑をこうむることがありました。

 延享四年(1747年)に、道奉行松平忠左衛門による道路行政上からの市場検分というのが行われました。このとき、魚問屋は公道を私的に利用して他業種住民の邪魔になっているのではないか、ということで厳しく申しつけられます。
 「お前らは往来に板船なるものを並べて商売をしているが、いったい何年に何という奉行に許されたことなのか。その委細について魚市場の絵図面を添えて提出せよ」
 この松平忠左衛門という人は、築地門跡前に屋敷を持つ五百石の旗本で、道奉行とともに上水改めという、現在の水道局長にあたるような職を兼ねていたこともあり、インフラ行政の親玉なのですが、ずいぶんと硬骨漢だったようで、ずけずけと言うばかりでなく、本来は町奉行所と協議して検分するところを単独でやってしまいます。
 おどろいたのは魚問屋たちで、今まで町奉行所から許可されていたことを咎められたわけですから寝耳に水です。ともかくも取り急ぎ市場の由来書と絵図面を作成し、道奉行役宅に提出しました。松平忠左衛門もこれを了解して、まずは落着とあいなります。
 ところが、この件について、今度は南町奉行能勢肥後守頼一より呼びつけられまして、
 「このたびの道奉行へ書面を提出し受理されたならば、魚市場は今回道奉行の裁断によって新規許可を与えられたということになるぞ」と言われます。
 長い間、魚河岸の道路使用許可を穏便にはからってきた町奉行所としては、その権限を侵害されるかたちとなり、すこぶる面白くない、というわけです。
 「お前たちは町奉行を何と心得ておるか」
 などと一喝されたものですから、魚河岸総代らは泡を食って、再度、道奉行役宅に伺い、文書の取下げを願い出ます。すると今度は、一度受理したものをお前たちの勝手で取り消すわけにはいかん、と言われて、またも町奉行所へと逆戻り。

 結局、道奉行、町奉行の両役宅を右往左往したあげく、ようやく両奉行間で調整ができたのは一ヵ月後、とりあえず文書は取り下げられて事なきを得ました。
今でいえば官庁の縄張り争いに巻き込まれたようなもので、魚河岸はとんだ道化を演じたわけです。