本船町引払い願い


 宝暦四年(1754年)、本船町を市場地域からはずし、問屋すべてを本小田原町の旧地に移転させて欲しいという訴願が町奉行所に及び、またも市場にひと騒動が持ち上がります。

 訴願したのが誰なのかは記録に残されていません。本船町といえば魚河岸のメインストリートで、これまで何度も道路使用をめぐって麻店と抗争をくりかえしてきました。そこで、今回も麻店からの願いかと思いがちですが、実は麻店には、各魚問屋より毎月銀十三匁五分ずつの庭銭が支払われていて、これが大きな収入でしたから、あえて訴願するほどの理由は見あたりません。唯一考えられるのは、本小田原町の家主らが願い出たのではないかということです。同じ市場地域なのに、本船町は繁盛しているけれど、魚市場発祥の地である本小田原町の方はさびれつつあり、休業問屋も多く発生しているという状況でした。そこで何かと問題の多い本船町でしたから、そこを突ついて、魚問屋を呼び戻し、何とか昔の活気をとり戻したかったのでしょう。
 当然のことながら本船町の魚問屋たちは、この訴願に猛烈な抵抗を示し、町奉行所に対して弁明書を提出しました。
 そこで強調しているのは、本船町は「船着き」の場所であり、本小田原町に移っては、荷揚げに著しい不便が生じ、さらに問屋それぞれが掘井戸等の資本投下をしていることもあり、このまま営業を継続したいというものでした。

 結局は本船町の言い分がすんなりと認められて、何事も起こらずに済みましたが、考えてみれば、同じ市場地域内で訴訟し合ったようなものですから、地域格差の問題はだいぶ根強かったとみるべきでしょう。
 また、この事件より五十五年後の文政二年(1819年)にも、本小田原町月行事他が本船町へと移転した魚問屋らを相手取って、元に戻るべきだという訴えを起こしています。このときも、本船町に移った問屋は、商売上移ったのであって、元に戻れば商売が出来なくなると主張し、解決にいたりませんでした。

 本小田原町の衰退は、江戸時代を通じて何ら好転することなく続き、幕末期には廃市同然という状況にまで追いこまれます。明治時代に室町通りや日本橋上での仲買出店が禁止となると、これらの業者が本小田原町に入り込んできて、再び活況を取り戻すことになるのですが、それまで苦難は続くわけで、魚河岸も繁盛しているようで、内部にはさまざまな矛盾をかかえて大変だったことがわかります。