船改めの強化で魚問屋定数が決まる


 享保五年(1729年)幕府はそれまで下田にあった「船番所」を浦賀に移して「浦賀奉行所」としました。そもそも「船番所」というのは、江戸開府後間もない元和二年(1616年)に、諸国廻船に通行許可の切手を与える海の関所としてはじめられたもので、これを機能強化し、積荷の厳重監査を行おうというのが、このときの奉行所設置の主旨でした。
 もっとも、当時の八代将軍吉宗が農業を奨励していて、西日本の綿、野菜、藍、茶、煙草などが江戸に入ってくるのを見越した上で、そこから物品の通行税を取ろうというねらいがあったようで、ただそれだけの理由では問屋たちの理解を得られないということから、積荷改めを前面に打ち出したという見方もあります。
 ちなみに、そのとき船積禁制とされた代表的なものを列記してみますと、具足、脇差、居合刀、竹刀、木刀、馬具、盾、旗竿、陣笠、鳶口、松明、火縄などの武器類が対象となっています。

 こうして、江戸湊を往来する船は、必ず「浦賀奉行所」によって船改めを受けることとなりましたが、漁船並びに魚荷だけの押送船(おしょくりせん)に限っては、奉行所へ寄港することなく、魚市場へ直行しても良いとされました。これは、浦賀奉行所開設にあたって、日本橋四組問屋に新場、芝を加えた七組魚問屋から、生魚は幕府納魚のために迅速に運ばなければならないから、特別なはからいをして欲しいという嘆願をしたことが認められたものでした。
 そこで、魚問屋側が浦賀奉行所に対して積荷を保証するために「印鑑問屋」という制度ができます。「印鑑問屋」とは、魚問屋に認可される鑑札で、別名、魚船問屋ともいい、各地から生魚を運んでくる漁船、押送船に対して、あらかじめ通行手形を発行する機関のことです。この手形があれば、船主が浦賀奉行所を通るときに、それを提示するだけで、船改めをしないでも良いことになっていました。
 印鑑問屋には、日本橋本小田原町組から六名、本船町組から三十四名、本船町横組から三名、安針町組から六名、さらに新場から九名、芝市場の本芝組から三名、芝金杉組から三名の合計六十四名が選ばれています。
 また、生魚のなかでもとくに活鯛に関しては、遠国の荷物を取扱うということで、廻船問屋同様に通行切手を発行しましたが、これもまた迅速に運び入れる必要があることから、活鯛のための通行切手を発行する「紙切手問屋」というものが制度化し、これには本小田原町組、本船町組より十四名の問屋が選ばれました。

 印鑑問屋、紙切手問屋ともに通行証明のための便宜上の機関に過ぎず、特別な問屋がつくられたわけではありません。あくまでも魚問屋のなかから代表的な者が選ばれただけのことですが、かれらは他の魚問屋に比べれば優位性が強かったのはまちがいなく、権力をふりかざしたり、不正な行為が多かったため、後年、印鑑問屋と同様の役目を持つ浮船問屋(ふせんとんや)や積合問屋(つみあいとんや)というものも発生してきます。しかし、これもまた定数化してしまい、印鑑問屋組合、浮船問屋組合、紙切手問屋組合という具合に組合が結成されます。つまり権利の分散・固定化が行われるわけです。
 ところで、印鑑問屋制度の意義は、幕府が魚河岸に対してはじめて鑑札を与えたというところにあり、これによって組合の統制力が強化され、魚問屋は定数制となり、正式な問屋名簿も作成されます。
 『紀要』によれば、享保年間の書上に問屋定数は三百四十七人とありますが、これを『東京市史稿・産業編』にある享保二十年(1735年)の魚問屋数三百十五人と比較すると、定数割れ三十二人となります。

 《享保二十年魚問屋数》
   本小田原町組  五十三人 休業二十四人
     本船町組 百二十三人 休業五人
    本船町横組  七十三人 休業一人
      安針町組  六十六人 休業二人


 この二十四年後の宝暦九年(1759年)の同様の史料では、問屋数二百九十一人とあり、休業問屋の増加は、魚河岸が元禄期をピークとして年を追うごとに衰退していった状況をあらわしています。

 《宝暦九年魚問屋数》
   本小田原町組  四十六人 休業三十一人
      本船町組  百十七人 休業十一人
    本船町横組  七十二人 休業二人
      安針町組  五十六人 休業十二人