納魚請負人制度(一)大和屋助五郎の栄光


 幕府への納魚が大きな負担となってきたため、宝永二年(1705年)に魚問屋への助成の意味から十一ヶ所の拝借地が与えられたことは前にみました。拝借地の地代や家賃収入の上がりで魚問屋らの負担を補おうというねらいでしたが、結局それでも根本的な解決にはならず、納魚への不満は絶えません。
 そこで、南町奉行大岡越前守の裁断により、享保四年(1719年)、これまでの直納(じきのう)による納魚制度を廃して、「請負人制度」に変えるという大改革が行われます。どういうことかというと、それまでの納魚は、初期においては本小田原町組が、後に本船町組がそれぞれ中心となって、多数の問屋から適格品を選んで上納しましたが、今度は納魚の一切を特定の請負人の権限と責任の下に任せるということです。
請負人は組合の代表として選ばれた者が就任し、そして、毎日城内賄所からくる、翌日の納入品についての達しに応じて上納魚を揃えるのが、その使命でありました。
 はじめて請負人に選ばれた者は、

 越前屋孫右衛門 伊勢屋岸右衛門 柴田四郎兵衛

の三人で、請負人制度の実施により、納魚助成地十一ヶ所は返還されることになりました。
 さて、請負人という役職は、たいへんに権威のあるものでした。何しろ御用魚を一手に引き受けるのですから、請負人の指図、すなわち御上の絶対命令に等しいものがあったことでしょう。魚問屋の代表として、入荷する魚を取りしきることが出来ました。
 しかし、それとうらはらに、その経済的負担は想像を絶するものがありました。というのも、納魚の価格は、「本途値段」といって、市場卸売価格の十分の一程度でしかなく、これが後に三割六分増となりますが、それでも七分の一の価格に過ぎません。納魚品は各問屋の儲けなしとして原価で買い上ますが、それでも大幅な損金が生じ、それがそのまま請負人の負担となるわけですから、商売としてはまったく立ちゆかなくなります。
 請負人三名は、この負担に堪えられずに奉行所に訴え出ます。仕方がないということで、享保八年(1723年)、大岡越前守の判断で請負人制度は中断することになりました。そして、旧来の通りの納魚が復活いたしますが、今度は助成金が与えられるわけではない。助成地も返還したままですから、当然、魚問屋らは「これじゃ堪らない」と騒ぎ出します。そこで、同十五年、今度は請負人を六人体制として、制度の復活となります。
 ここまでの経緯をみると、請負人制度は、大岡越前守が魚問屋らの不満に応じて、その都度変えていったもので、行き当たりばったりという印象すら受けますし、もとより無理を押しての制度だったともいえるでしょう。
 任命された六人が誰であったかは記録に残されていませんが、どうやら何事もなく責務をまっとうして、享保二十年(1735年)に任期満了となったようです。そして、続いて任命されるのが次の四人。

 鯉屋藤左衛門 西宮甚左衛門 堺屋長兵衛 大和屋助五郎

 このうち最初の三人は、森一族の流れをくむ摂津系問屋であることに注目すべきでしょう。そして最後の一人、大和屋助五郎は、森一族が魚河岸を開いた当時、殴りこみをかけるように市場に参入、独占的な活鯛流通システムをつくりあげた大和屋助五郎の子孫で、三代目にあたる同名の人物です。つまり、水と油をいっしょにしたような人選であり、これが、昔からくすぶっていた摂津系問屋と大和屋の確執に火をつけることになりました。

 大和屋助五郎は、この時期まさに絶頂期にありました。生類憐みの令が終結する正徳年間(1711〜1716年)には、関東から西日本に至るまでの広大な地域に流通ルートを広げ、それら敷浦においては、一村すべての魚介類を支配し、活鯛納人はかれひとりの手中にあり、その地位はゆるぎないものとなっていました。
 しかし、大和屋にどれほど実力があっても、市場においては摂津系問屋こそが魚河岸創始以来の伝統を引き継ぐ主流派であるという暗黙の認識があり、組合内での発言力にも差があったと考えられます。大和屋にしてみれば、いつまでもアウトサイダー的な扱いには、きっと臍をかむ思いだったことでしょう。自分の実力が大きいほど、それに見合った権威は欲しくなるものです。

 元文五年(1740年)ニ月、四人の任期満了を一ヶ月後に控えるその時期に、請負人をめぐって勃発した問題について、日本橋四組魚問屋並びに新肴場、芝の各行事が奉行所に呼び出されます。その問題とは、大和屋と摂津系問屋が納魚価格について大きく対立したことでした。
 大和屋と摂津系問屋の四人は、水面下で反目しながらも、五年間の任期を大きな問題もなく終えようとしておりました。ところが、年明け頃より後任の準備にかかると、かねてより懸案とされていた納魚価格の引き上げ案が浮上、お互いが真っ向から対立します。これより以前に、両者は共同で納魚値段引き上げを幕府に要請しており、「本途値段」の三割六分の増額が認められていました。しかし、それでも損金が生じるため、摂津系問屋の三人は、さらに二割五分引き上げて、合計六割一分の増額となるように願い出ます。これに対して大和屋は、「三割六分増しのままでやっていける」と言い放ち、両者の主張はまったく相容れぬままに平行線をたどりました。
 奉行所は各組問屋行事に対し、今回の問題によって納魚の差し障りのないように申し付けた上で、請負人らの調停に乗り出しますが、両者の対立は激化するばかりです。ついに摂津系三問屋は、価格引き上げ要求が通らないなら請負人を辞退することを表明します。すると、それに対して大和屋は、「三人の者は御用召し上げということにして、私一人に任せて頂ければ、一両年はやっていける」と大見得を切りました。
 奉行所にしてみれば、安く上がる方が都合が良いわけですから、大和屋の意見を取上げます。毎月の納魚代金の三分のニを前払いして欲しいという、唯一の付帯条件を聞き入れた上で、請負人を大和屋一人に任命しました。
 このような大役を一人の者に任せるのは、きわめて異例です。それは大変な名誉であり、最高の権威を手にしたことになります。それと同時に、その経済的負担はきわめて大きいものでした。何しろ、四人制の下でも損金が大きく、摂津系問屋はやっていけないと音を上げたくらいですから、それを一人でやっていくには、想像を絶する負担を強いられたはずです。
 しかし、大和屋助五郎は言ってのけます。
 「一両年の間は、価格引き上げなどの願いは一切しないし、それで納魚がとどこおったならば、いかような罰を命じられてもかまわない」
 これほどの自信には訳がありました。すでに独占的な活鯛事業を展開する大和屋でしたが、ついに浦賀奉行より浦賀検校崎に横幅百三十間(約230m)という広大な「永代活鯛囲簀場所」新設の許可を受けることになっていたからです。
 さらに寛保三年(1743年)、それまで伏見屋作兵衛、鯉屋小兵衛が請け負っていた江戸御用聞商人も引き受けます。これは御屋敷方に納める役目であり、これまた権威のある座です。
 すなわち大和屋助五郎は、納魚請負人と活鯛御用人と江戸御用聞商人という、本来は分かれていたはずの主要な職分をすべて手中に収め、魚問屋の権威を一人占めすることになったのです。まさに栄光は大和屋の頭上に輝き、得意の絶頂にあったことでしょう。
 しかし、納魚請負人の座をめぐって摂津系問屋との抗争は避けがたいものとなり、さらに大和屋に江戸御用聞商人を追われた伏見屋、鯉屋も共に摂津系問屋であったことで、これより打倒大和屋を目指して摂津系問屋の巻き返しがはじまります。