納魚請負人制度(二)大和屋助五郎と摂津系問屋との抗争


 納魚請負人、活鯛御用人、江戸御用聞商人という魚問屋の主要な職分を一人占めにした大和屋助五郎は得意の絶頂にありました。その昔、本小田原町で問屋を開業するにあたっては、森一族らの摂津系魚問屋との確執に明け暮れました。そして不断の努力により活鯛流通システムを創りあげ、自らは活鯛御用人としての地位を確固とし、しかもその方式は他の魚問屋に大きく影響を与えました。にもかかわらず、魚河岸でのかれの位置づけはあくまでもアウトサイダーであり、四組問屋の実権を握るのは、相変わらず摂津系問屋でありました。しかし、ここにすべての権威を手に入れ、押しも押されぬ魚問屋の第一人者となったのですから、開業以来、百三十年にわたって持ちつづけた目標がついに実現したといえるでしょう。
 大和屋の意気込みはすさまじいものがあり、一人では到底出来ない仕事をテキパキとこなしました。奉行所も魚問屋に対し、「大和屋より御膳御用となる魚の入荷についての問合せがあったときには、当日に限らず、翌日、翌々日であっても、品種、数量を正確に知らせるように」という具合に強くお達しをいたしますので、各組合とも納魚納入にきちんと努めます。

 しかし、栄華をきわめる大和屋も、ついに泣きを入れるときがきます。寛保三年(1743年)、「このたび御用取続きが困難となりまして……」として請負人の辞意を表明したのです。それは、元文五年(1740年)の就任から数えて満三年を迎えるときでした。もともと「一両年」という約束でしたから、それが三年続けられたことだけでも大したことだといえるでしょう。強大な活鯛流通を擁する大和屋だからこそ出来たことかもしれません。
 奉行所は、このまま大和屋に辞められては大変だということで、なんとか慰留につとめます。納魚価格を五割六分増しにすることで折り合いをつけ、あらたに向こう五年間、延享五年(1748年)三月までの年季を定めて再任させることとし、大和屋の単独請負人は二期目に入ります。
 ところが、再任四年目を迎える延享三年(1746年)に事件が起こります。それは、大和屋助五郎が請負人新任以来の七年間、納魚のために他の問屋から仕入れた魚の代金を、ずっと滞納したままであるとして、これを不満とする問屋らが奉行所に訴願したものです。さらに次の五人に代金を肩代わりさせるように願い出ました。

 西宮源右衛門 佐野屋七兵衛 佃屋佐兵衛 佃屋九佐衛門 伏見屋作兵衛

 この五人はいずれも摂津系問屋です。つまり、大和屋に奪われた四組問屋組合の代表の座を取り戻すべく、失地回復に立ちあがった様子が見てとれます。とくに伏見屋は、四十年間続けてきた江戸御用聞商人の地位を、先年、大和屋に横取りされたばかりでしたから、これを好機と巻き返しに出たのでしょう。ここに閉鎖的社会における権力争いの激しさがうかがえるように思います。
 それにしても、七年間にわたっての仕入代金滞納というのは穏やかではありません。これでは摂津系問屋につけ込まれるのは当然のことです。あるいは大和屋を陥れるための策謀かと勘ぐりたくなりますが、今回の訴えは事実であり、大和屋には多額の滞納金があったのです。奉行所に対しては「代金引き上げなどいたさずに勤めてみせる」と大見得を切りながらも、その実態は問屋への代金を支払わずに体面のみをとりつくろうものでした。
 これは明らかに失態であり、大和屋は断罪されても仕方のない状況です。しかるに奉行所は大和屋がまだ“年季中”ということで訴えを却下します。ただし、未納金返済には善処するように申し付け、最近半年間については向こう三十日以内に返済し、それ以前の分は、おいおいながら、きっと完済するように命じましたが、一切のお咎めもなく、そればかりか、延享五年(1748年)をもって年季明けとなる大和屋をまたも再任させ、単独請負人として三期目に突入することになりました。
 この大和屋に対する奉行所の庇護ともとれる手ごころの加え方に納得がいかないのは、摂津系問屋の面々です。たとえ大和屋が請負人に再任されても、うまくいくはずがありません。抗争は収まりをみせず、多分何らかの衝突があったのでしょう、大和屋は任期中である寛延三年(1750年)、ついに請負人の座から降りることになりました。さらに、それから間もなく江戸御用聞商人の地位からもすべり落ちています。その後、大和屋は活鯛御用は何年か継続するも、魚河岸の表舞台からその姿を消し、結果として魚河岸草創期から続いてきた摂津系問屋との抗争はここに終結をみることになります。
 大和屋の絶頂期は終りを告げ、再び摂津系問屋がイニシアティブを取ることになり、請負人として新任したのが、

 西宮甚左衛門 梶木九右衛門 三河屋善兵衛 佃屋九兵衛

の四人です。
 ところが、今回の請負人は就任後わずか一年で、納魚上の不手際をとがめられ、重い処罰を受けた上、失脚してしまいます。
 不手際というのは、寛延四年(1751年)五月二十七日の午後二時過ぎに城内賄所より「明朝までに、大小の鯛一折として予備を見込んで八尾、スズキも同様に八尾、マスも同じく八尾を納入せよ。ただし、マスはまだ漁期早々につき、念のために畜養している大小の鯛やスズキを充ててもかまわない」という達しがあったのですが、実際に納入されたのは、大小の鯛五枚、フッコの大小七本、活ボラ七本でした。注文と納入品では、鯛以外は品違いで、しかも数量が少なく代替の品が添えられておらず、事前連絡もしなかったなどとして、城内賄所が町奉行所へ訴え出たものです。
 実のところ、季節によっては命令された通りの魚が調達できないことも多く、ありあわせの魚を納入することが慣例のようになっていました。そこで、奉行所としては、この際だから引き締めにかかろうという意図があったのかもしれません。また、この訴訟を担当した町奉行能勢肥後守頼一は、延享四年(1747年)に道奉行松平忠左衛門が、道路行政の上から魚河岸運営に介入したときに、それにクレームをつけたその人で、今回も武骨なところを示したともいえます。
 しかし、そこには明らかに四人の請負人を追い落とそうという意図があったように思われます。任期途中にあった大和屋を引きずり降ろしたかれらが憎くもあったのでしょう。とくに、西宮甚左衛門については、かつて請負人が大和屋を加えた四人制であったときに、納魚価格の引き上げをめぐって大和屋と対立した問屋です。そこに含むところが多かったことは容易に想像できます。
 そして、四人に対して「身代取上げ」という、とんでもなく重い過料が課せられます。当然、問屋業務の存続は不可能となり、四代続いた西宮は消滅。他の三人も同様の末路をたどりました。これは、大和屋が七年間もの代金滞納があっても請負人を続けたのに比べれば、あまりにも不平等な措置であったといえるでしょう。

 よく考えてみれば、納魚請負人という多大な負担を被っても一銭の得もない名誉職をめぐって、血肉を分かつような激しい争いが繰りひろげられたのも、摂津系問屋と大和屋という古来からの二大勢力による魚河岸の覇権をめぐっての衝突にほかなりません。
そこに勝利者はありませんでした。野望を砕かれた大和屋、没落していった摂津系の問屋たち。抗争に費やされた時間とエネルギーは、はかなく消えただけでした。問屋らは疲れ果て、ただ毎日の商売のみに追いまくられるようになります。
すでに魚河岸の繁栄期は終りを告げていたのです。