納魚請負人制度(三)請負人制から直買制への移行


 納魚品不手際事件により西宮甚左衛門らが断罪された後、納魚請負人に選ばれたのは次の三人です。

 鯉屋藤左衛門 神崎屋又兵衛 竹口勘右衛門

 筆頭の鯉屋は摂津系問屋です。大和屋助五郎を追い落とした摂津系問屋でしたが、今度はかれらの代表が断罪されて没落していきました。にもかかわらず、その後を継いだのが同じ摂津系であるのはどういうことでしょうか。大和屋助五郎にはすでにカムバックするほどの力は残されておらず、抗争も終結していて、無難に請負人を勤められるのにふさわしい者として選ばれたのかもしれません。
 壮絶な抗争の後だけに穏やかな引継ぎとなったようですが、実はこのときを境に、制度の見直しが行われ、納魚そのものが大きく変容するきっかけが生まれています。それは、これまでの請負人制度が特定の請負人にすべてを任せたのに対し、ここではじめて幕府賄所による直買(じきがい)が行われるようになったことです。あくまでも請負人を仲介して納入魚を集めるのですが、その差配から納入方法まで役人が口をはさむことになり、請負人はお上の指示によって動くもので、その権限はいちじるしく抑えられることとなりました。

 その後、幕府は「御納屋」という直買機関を設置して、役人が市場内を回って目欲しい魚を「取り上げる」という本格的な直買に移行し、歴史ある納魚は末期的な状況を迎えるのですが、その前段階として、請負人を介しての部分的直買がはじまったといえます。
 もっとも、このような変化は、単に経費削減をねらったもので、請負人制度がはじまって以来、「本途値段」より五割六分増しまで納魚価格は引き上げられていましたから、何とかこれを下げたい。さらに諸経費をも圧縮しようというもくろみがそこにありました。それは、とりもなおさず、窮乏する幕府財政を反映してのことでしたが、魚問屋の納魚に対する負担を解消するべく誕生した請負人制度が、結局は失敗に終わったことを物語るものといえるでしょう。