まとめ ―納魚の変容―

 『歴史』の著者のひとり、木戸憲成氏が同書のあとがきで次のように書かれています。

 「幕府は、江戸城中で必要とするあらゆる商品について“御用聞商人”の制度を定めていたが、水産物や青果物のほかは、よしんば納入価格が低いにせよ、市中向け販売において、御用聞商人という特権と信用により、巨利を取得することが可能であったのに対し、水産物や青果物など食糧品においては、そのような消費者への転嫁の方法はなかった……産地側からの仕入価格と江戸城中への納入価格の格差をどのように補てんするかについては、行政面からの助成も時に見られたが、魚市場側も自主的に何回か方策を実施し、やがて失敗するという繰り返しを続けた。他商品の御用聞商人が消費者への転嫁を計ったのと同様の手法が、生産者(出荷者)側へ転嫁するという方法であった。これは、さまざまな方法で行われたものと推測されるが、ある一定の法則を生み出すまでに至らず、個々の問屋がそれぞれの才覚で、さまざまな手法を編み出していったように考えられる。別な表現でいえば、幕府が低廉な価格で生産者からその生産物を取り上げる、その中間に魚問屋が介在したという事になる。ただし、この手法を悪用することにおいて、不当な利益を取得することもあり得た。あるいは、それが日常化したかとも考えられる。」

 これを読むと、納魚の負担がどのようなものであったかが、よく理解できると思います。
 魚河岸は幕府への魚上納の残余を市中に売り出したことが始めとされるように、その主要業務は納魚にありました。そして、それは魚問屋にとっては非常に名誉なことだったことは、これまでに何度も述べた通りです。納魚は、御用の高張堤燈を掲げた大八車に魚介類を積んで、毎日、竜の口の賄所に届けるというものでしたが、この御用魚というのは大変なもので、その輸送には、百万石の大名行列ですら横切って通ることを許されませんでした。そんなことから、魚河岸には他の問屋とは違うのだという特権意識が生れてきます。あるいはかれらの向こう気の強さというのも、幕府御用達という誇りからきたものかもしれません。
 しかし、木戸氏が指摘しているように、魚河岸の他にも、幕府御用を勤める商人というのはたくさんいました。しかもかれらは、たとえ幕府への納入価格が問題にならないくらい低くても、幕府御用というのが何よりの信用となり、特権的な商売を展開できたので、いくらでも消費者相手に利潤を得ることができるという「うまみ」があって、安定した儲けを見込めたのです。
 ところが、魚河岸や「やっちゃば」にはそれがありません。食料品市場は全体としてみれば大きな商いでも、その中身は小さな問屋が凌ぎをけずるものでしたから、消費者に対して幕府御用を売りにしても、各問屋がその恩恵をこうむるというものではありませんでした。それに「菓子」とか「呉服」ならともかく、「幕府御用のさんま」とか「将軍家御用達のすずしろ」といったところで、さほどありがたみはないでしょう。いってみれば、自然のままの一次食品を扱うわけですから、問屋の看板がどうというよりも、季節や天候といった産地の状況に大きく左右されるわけで、他の商工業者のように幕府御用をかかげて商売を伸ばしていくことはできなかったのです。
 そうなると、納魚はいかに名誉であっても、負担ばかりが目立ち、ありがたいものではなくなっていきます。幕府への上納品は、一尾四十文とされ、鯛ですら眼の下一寸四十文という、とんでもない廉価に抑えられていました。それでも大名や旗本への御用が、かなり高値で納められ、これが上納の損失を充分に補って、なお儲けを出しましたから、魚問屋らは争って御用を勤めたといいます。ところが、幕府の財政逼迫にともない、諸大名の台所事情も苦しくなってきますと、諸物価の高騰もあって、代金の払いも悪くなります。一方、市中には高く売れますから、そちらの儲けが大きくなればなるほど、納魚の負担は増していくことになります。

 木戸氏の指摘するように、納魚の損失は産地に転嫁されました。幕府御用は、消費者に対しては、大した売り文句とはなりませんでしたが、産地をしめつける名目として大きな力を持ったのです。幕府の御威光によって産地を統制し、その結果、鮮魚流通を独占することにつながっていきます。その状況を木戸氏は“幕府が生産者から生産物を取り上げる、その中間に魚問屋が介在した”と逆説的に述べていますが、産地支配とそれによる流通の独占こそが、納魚によってもたらされる唯一の「うまみ」だったともいえるでしょう。しかし、産地に対してあまりに高率な口銭をかけたために逆に反発にあい、本材木町に「新肴場」がつくられたように、納魚の負担を産地へ転嫁するにも限界があって、問題の根本的な解決にはいたりませんでした。むしろ各問屋が幕府御用を傘に着て、いろいろと悪どいことをするとか、産地の旅人を奪い合うといった状況が生まれてくるわけです。
 そうして魚河岸は、納魚の負担を解消できないまま、産地との問題もはらみつつ、時代を経ていくことになります。いつかは行きづまる状況でしたが、しばらくは大きな問題としては発展しなかったのは、幕府が安定期にあり、魚河岸に影響を与えるような社会事件がなかったこと。そして、何よりも商売が繁盛していたために何とかなっていたというのが、その理由だと思います。

 魚河岸が最も繁盛をみたのが元禄時代で、この時期は江戸の高度成長期にあたり、大いに消費景気に沸いたのですが、とくに魚河岸は「朝千両」といわれ、芝居町、吉原と共に、江戸で最も繁盛する場所に数えられました。この頃の魚河岸旦那衆の吉原での派手な遊びといったら、昭和末期のバブル景気ですらママゴトかと思えるほどの羽振りの良さでした。かれらは江戸中の評判となりましたし、髪型にしても服装にしても、その風俗が大変な流行をよびます。魚河岸が時代のトレンドとなったのは、後にも先にもこの時期だけでしょう。現在の築地魚市場をみても、新しいのは鮮魚ばかりで、むしろレトロな風格をたたえるばかりですが、かつては魚河岸こそが流行の発信地だという、そんな時代もあったことを記しておきたいと思います。
 魚河岸の元気の良さは、元禄期に頂点を迎えた後は、それぞれの時代で浮き沈みをくりかえしながらも、平成の現代に至るまでスローダウンし続けているといっても過言ではありません。それというのも、元禄以後の三百年間、魚河岸はいつだって時代の変化に即応できずにきたからです。もっといえば、時代に翻弄され続けたともいえるでしょう。

 さて、元禄期の繁盛も下火を迎えますと、納魚の負担が次第に深刻化してまいります。もはや産地への転嫁ではたちゆかないことから、「何とかして欲しい」と訴願に及ぶこととなります。幕府としても助成地を与え、後には助成金を与えるなど、そのつど措置をしますが、状況は好転しません。そこで出てくる納魚請負人制度は、魚問屋組合による直納から、特定の請負人に納魚を任せるというもので、もともと魚問屋の負担の軽減がねらいでした。しかし、これが内部紛争の引き金ともなり、一方で賄費の高騰が問題化し、結局は廃止の方向に向かいます。

 「繁栄期の百年」は、大まかにいえば、魚河岸が納魚の矛盾に対して腐心を続けた結果、問題を解決できずに終わった百年であったともいえるでしょう。このあと納魚制度は、幕府による直買へと移行します。悪名高い「御納屋」が設置され、手カギをもった役人が容赦なく魚を取り上げるようになると、幕府と魚河岸との信頼関係に成り立っていた納魚の伝統は終わりを告げるのです。
 これより先、魚河岸は、かつての繁栄を取り戻すことができず、次第に力が衰えていくと、産地との関係や他市場との紛争といった、それまで押えられてきた様々の問題との対峙を余儀なくされることになります。そして、幕末の混乱の末に幕府は瓦解。後ろ盾を失なった魚河岸が、時代の渦の中に否応なく巻き込まれるのですが、これは第三部「衰退期の百年」でみていきたいと思います。