田沼意次と松平定信


 十代将軍家治の治下は、田沼時代と呼ばれ、側用人から老中に昇進した田沼意次が幕府の実権をにぎりました。一般に田沼時代といえば、賄賂が横行して政治腐敗の広がったという側面ばかりが語られがちですが、株仲間の公認によって商工業者を統制したり、銅や俵物(イリコ・干アワビ・フカヒレなどの俵につめた海産物)を輸出して金銀を輸入するといった革新的な経済政策についても見逃せません。経済重視により商品生産力が発展すると、それが教育や知識への要求につながり、この時代には数多くの寺子屋がつくられ、技術書や文芸書が次々と出版されました。
 しかし、あまりに重商主義的な意次のやり方は、周囲から不評を買い、天明二年(1782年)には東北地方の冷害による大飢饉が、さらに翌三年に浅間山の大噴火が起こると、天災は田沼の悪政のためだ、などと言いがかりに等しい批判を浴び、将軍家治が死去すると意次は失脚、田沼時代は終わりを告げます。
 余談ですが、魚河岸の納魚請負人に過渡的な直買(じきがい)制度が導入される際、町奉行能勢肥後守が決裁を仰いだのが、当時、側用人に登用されたばかりの田沼意次その人でした。このときの見直しは、納魚費用を大幅に節約することが目的で、実際に制度導入前に比べて約四十五パーセントの経費節減を実現しています。意次は積極的に直買制度を推奨したといいますが、実は田沼時代には大幅な財政改革が実施されていて、このように支出を厳しく抑制することで、幕府の金蔵の備蓄金を綱吉以来といわれるほどに満たすことに成功しているのです。これは、賄賂をむさぼるというかれのイメージとは、ちょっとかけはなれているように思えます。
そもそも賄賂政治といっても、本当に意次が賄賂をむさぼったかどうかも疑わしく、その史料も落首や流言の類、あるいは、政敵である松平定信の書いた「宇下人言」や、明らかに定信派と思われる松浦静山の「甲子夜話」の中の田沼批判からきているもので信憑性がありません。将軍に質素な生活を勧めるために、自らも禁欲的な生活を送っていたという話も残されていて、こちらの方がより実像に近いのではないでしょうか。もしも、本当に賄賂まみれであるなら、柳沢吉保の「六義園」のように形になるものが残されているはずですが、意次にはそういうものはありませんし、大きな財産が没収されたという記録も残されていないのです。むしろ金に対してはきれいだったとさえいえると思います。
さて、田沼意次に代わって老中に就任したのが白河藩主松平定信です。定信は、十一代将軍家斉を補佐して幕政にたずさわり、田沼政治を廃し、享保の吉宗時代に復することを念願として徹底した倹約を奨励する、いわゆる寛政の改革を断行していきます。これは若き白河藩主として天明の飢饉に際して倹約政策をもって乗り切った経験からきているといわれています。
定信の治績として特筆すべきものに、町入用を削減し、減少分の七割を積み立てさせる、いわゆる七分積金(しちぶつみきん)があります。この積立は毎年二万両を越えるものとなり、寛政三年(1791年)に設立された江戸町会所において困窮地主層へ低利で貸付けて没落を防ぎました。また、囲米(かこいまい)を行って、飢饉や災害などに際して窮民へ救米を施すことになりました。これらは明治五年(1872年)に廃止されるのですが、それまでに蓄えられた莫大な積金および囲米は、維新政府の財源に利用されます。何しろ明治新政府はお金がなかったので、東京遷都にあたって、この江戸の蓄財に恵まれたわけです。
 このような優れた政策を打ち出す一方で、風俗や出版の統制をことさらにやまかしくし、好色本や私娼を禁止し、洒落本作者の山東京伝(さんとうきょうでん)を処罰してみたり、定信自らも沿岸警備について積極的に取り組みながらも、林子平が「海国兵談」や「三国通覧図説」などを著して海防の必要を説くと、やはりこいつも処罰だと、いかにも海外情報は自分で独占するとばかりに狭量なところを見せています。
 なかでも定信の評判を非常に落としたのが徹底した倹約令です。たとえば城中の食膳でも、五百人前つくるところを二百人分の費用で済ますということをしていて、「まずくて食えたものじゃない」ほど、ひどい料理を献じていました。寛政二年(1790年)十二月、将軍家斉第三子の誕生祝いのときに、定信自身の膳には、半ばくさった鯛が乗っていて、「これはけしからぬ御風味だ」と立腹したといいます。あるいは、日頃からやかましい定信に対する意趣返しだったのかもしれませんが、城中では鮮度の落ちた魚が出されてもめずらしくないほど、食事について徹底的に倹約が励行されました。
 そうした時節柄、世間でも贅沢は固く禁じられるという風潮でしたから、魚介類のはしりものもすっかりと姿を消してしまいました。もろに影響をうけたのが「初ガツオ」で、定信の世になってから、その値段も暴落し、初ガツオ売りたちは、仕入れたものを売り尽くすのに四苦八苦することになります。これは一説に、定信の隠密が棒手ふりに化けて魚を売り歩いているから、高いカツオを買う者がいると、すぐに越中様(定信)の耳に入るから、高いうちは買わない方がいいという噂が広まったためともいわれています。
 定信の倹約政治は、一時的に幕政をひきしめることには成功しましたが、やはり度を越してはいけないということでしょう。華美を求める大奥からの猛烈な反対などに遭って改革は頓挫し、定信は失脚の憂き目をみます。
 ところで、寛政四年(1792年)に魚河岸に置かれた魚役所は、定信の置き土産のようなもので、倹約政治の流れにそって魚河岸の納魚制度も改革しようというものでした。これは、田沼意次が奨めた納魚の直買をさらに進めたものといえますが、魚役所を設置して役人が直接魚を買い上げるやり方は、効率的ではありましたが、かつての幕府と魚河岸との信頼関係の上に成立してきた納魚とはかけ離れたものであり、定信が失脚した後も、魚役所は長年にわたって魚問屋らを苦しめ続け、建継騒動という大事件を引き起こすことになります。
 田沼意次も松平定信も共に、ひっ迫する幕政を建て直そうとしたわけですが、あまりに性格のちがうこの二人は何かと比較されます。"濁った政治"田沼意次と"清らかすぎる"松平定信の治世というようにです。あえて意地悪な比較をすると、賄賂というイメージのつきまとう意次に豪勢な屋敷や財産の痕跡がないのに比べて、定信の方は、徹底した倹約をうたったにもかかわらず、築地に下屋敷を拝領し、そこに浴恩園という美しい庭園を築いています。これは定信の趣味の良さを物語るもので、文句をつけることではないのですが、自分の嗜好に倹約はしなかったということでしょう。それと不思議な縁ですが、この浴恩園のあった場所に、現在の築地市場がつくられました。

<閉じる>