〜講談 魚河岸年代記〜

魚河岸発祥の段





魚河岸のはじまり――それは今を去ること4百年余

お話は、天正十年・西暦1582年6月の2日

世に言う「本能寺の変」から始まります。


 ベンベン!


あ、このベンベンというのは釈台を引っぱたく音でございまして

場面の変わるところとか アタクシのキアイが入ったところで

ひっぱたくことになっておりますぅ

では……



ベンベン!

信長公のお招きに 安土城へとおもむきて 堺に遊ぶは徳川家康

そこに飛びこむ凶報は 明智光秀十兵衛の 主君ば襲う本能寺

さても憎きはキンカン頭と 思う気持ちもあらばこそ

我と我が身の置かれし立場に 肝をつぶしたタヌキの屁

険しい伊賀の山中を わずかの味方を伴いて

伊勢は志摩へと抜けまして 急ぎクニへと帰る道のり

戦国の世に 武士とても 小人数で山道を

抜けるは自殺に 等しき行為

賊に襲われ所持金を 奪わるるなど序の口で

噂にきこゆ この場所は

地獄の一丁目といって 二丁目のないところ



ベンベン!ベンベン!


命さえもが ままならぬ 浪間にゆれる小舟の運命(さだめ)

これぞ家康生涯の 最大の危機と言われます

「伊賀越えの難」でございますぅぅぅ



ベンベン!

困窮きわまるそのときに

「殿、それがしが!!」 進みでたるは側近の
 
茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)にございました

この部下が まこと目ざまし活躍を やり遂げるのでございます


地獄の沙汰も金しだい 行く先ざきの村々に

白銀(しろがね)黄金(こがね)ばらまいて 土民の襲撃防ぎつつ

かの 服部半蔵正成(まさなり)に いずれのツテでか密通し

伊賀に甲賀の 忍びの衆を 心強き味方につけて

山道 間道 秘密のルート 忍者のみちを強行し 無事に伊勢まで たどり着く

さてもめでたき この伊賀越えに 身体を張って働いた

命の恩人 側近たちに 家康は 手厚く恩賞を取らせたのでございますぅ



さて、この「伊賀越え」に最後まで同行し 船で伊勢から岡崎まで家康を運んだのが

茶屋四郎次郎(ちゃや しろうじろう)配下である堺の森孫右衛門(もり まごえもん)

およびその一族でありますな


森孫右衛門――「日本橋魚河岸沿革紀要(えんかくきよう)」という

由緒正しき由来書にその名前が出てまいります

いわく摂津国の名主 森孫右衛門をはじめとする漁師三十余名が江戸に渡り漁業権を得て

 幕府の御膳を賄うその余りを市中に売ったのが 魚河岸のはじまりであると

つまりこの森一族こそが魚河岸の創始者というわけでございますが

さてこの森一族とは いったい何者なのございましょう


ベンベン!

家康公がその昔 堺は住吉 明神様に 参詣いたし その折に

川を渡る船がなく たいそう難儀をいたします

現れいでたる 孫右衛門 自分の船を操って 無事にお渡しいたします

そんな縁(えにし)をきっかけに 孫衛門が一族は

家康公のご西遊 必ず魚を献上し 海路案内 つとめます

冬と夏との 大坂の役 海上偵察ぬかりなく

家康公が腹心と 大なる働き見せました

さても彼らは一介の 漁師上がりがなにゆえに 重用されたでありましょうか

ベンベン!

摂津国の漁師団 しかして彼らの実体は

瀬戸内海を股にかけ 暴れまわるは海賊の 一大勢力旗頭

群雄割拠の戦国時代 漁師といえども自らを 守るための武装船

貿易商人繋がりつけて 情報収集お手のもの

大名・武将の片腕に 暗躍するは世の流れ

まあこのような海賊とのつながりは

徳川の歴史書にも魚河岸の由来書にも一切ふれられてはおりません

家康が神格化されていく上で あまり好ましくない話でもあったのでございましょう

その後も小田原攻めなど数々の手柄を立てた森一族は 家康と時を同じくして江戸へ入り

表向きは漁業を業としながら 江戸湊一帯の警護にあたりました

その際、かれらには江戸の海の漁業をみとめられ

その見返りとして幕府への御肴納入が義務づけられたのでございます

そして後年になって 余った魚を市販することの許しを得て

日本橋小田原河岸を拝領し売買を始めた

これすなわち、魚河岸の始まりにございますぅぅぅ

ベンベン!


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