ヤロウズ通信・第2号

 
土曜日はストレンジャー

 

 
 また今日も来てしまった。

 これでもかと並んだ魚・さかな・サカナ。水槽じゃあタイがピチッと水しぶきを上げてる。オガクズのなかからモゾモゾと頭をもたげる伊勢エビ。突然のアサリの水鉄砲が通行人の足下を濡らす。巨大なマグロは男たちの手さばきもあざやかにまっぷたつさ。色とりどりの魚たちの舞台は、どこもかしこも水びたし。しかも血だらけだ。それから鼻をつくこの臭いといったら。眼をつむって深呼吸すれば、その向こうの海を感じることだってできるよ。
 ここは東京都中央卸売市場築地市場――そんな長ったらしいコト言わなくても「ツキジのカシ」でどこでも通じる。隅田川に面した一区画。それは特別の空間だ。世間とは隔絶された別世界。ここへ足を踏み入れた瞬間、外とはまるでちがう時間が流れ出すんだ。それは何ていうかな。すべてが忙しくてのんびりとしている・・・いや、それじゃまるで矛盾した言い方だ。じゃあこう言おう。呼吸してる感じ。息づかいが伝わってくる町。ここでは生活の糧となるものを扱っている。みんなの血となり肉となる食材をね。だからあちこちに生命があふれていて、その集合体である市場全体が魚も人も含めてまるでひとつの生き物のように呼吸をしている――とでもいうかな。

 毎週土曜日、僕は決まってこの別世界を訪れた。
 「まるで仕事に行くみたいね。」
 うちのカミさんが冷やかすように言ったよ。確かに僕はある種の使命感みたいなものまで感じて熱心に通ったもんさ。でも月曜から金曜まで仕事場に向かうのとは明らかにちがった足取りで家を出る。ウキウキした気持ち。さあ行くぞーって感じさ。といって何も僕は河岸に新鮮な食材を求めに行くんでも、旨い寿司を食べようというんでも、ましてや東京の原風景を探しに散歩者を気取るわけでもない。

 何か「まっとうなもの」を感じるためにここに立つんだ。だって市場ってところは正味の価値がものをいうところじゃないか。価値あるものとそれを見きわめる人と、その抜き差しならない関係がこの世界を動かしている。本当はきれいごとばかりじゃないかもしれないけどね。でも、少なくとも「良いものは良い」という確固たる価値観がここにはあるじゃないか。そんなまっとうな場所ってほかにどこにあるんだろう。そりゃ毎週訪ねちゃうね。もちろん僕はこの世界の住人じゃないし、いってみれば異邦人のようなものさ。ふらふら歩いていると「何だ、おめ」って露骨な眼を向けられたりもする。ここではよそ者に対してだって手心なんて加えないからね。"チャラチャラしてるとぶっとばすぞ!"みたいな凄みがある。それが小気味いいんだな。気持ちにたまったカスのようなものが、いっぺんに吹っ飛んでしまう気がする。

 かくして僕は週に一度、東京のなかに異国みたいに存在するこの別世界に入りこみ、ひとりの異邦人となりすまして、生臭い空気を胸一杯に吸い込んでは妙にサッパリした気持ちになるんだ。もっとも客でさえない僕なんて、本当はあまり歓迎されない存在なんだろうけどね。

 さあて、土曜日の僕の仕事といったらただ歩くだけ。ダイナミックなこの世界のちょっとした瞬間に立ち会うだけ。たとえば狭い通路をターレがすれちがうときにお兄さん同士が交わすその眼がカッコイイな、とか、水槽からまんまと逃げのびたウナギが踏み板の下にもぐり込む様子が面白いな、とか、そんなものばかり見ている。これが僕にはとっても愉しい行動なんだけどね。でも、ほかの人たちの興味はたいてい別のところにあるさ。よく知り合いから市場のおススメの店を教えてよ、なんて言われるんだけど困ってしまう。実のところあんまり知らないんだ。専門外なものでね。あ、でもこんな僕でも毎回のように立ち寄る場所がいくつかあるよ。そのうちのひとつに、ちょうどこれから行こうかと思ってたところなんだ。そうだ、良かったらいっしょにご案内するよ。

 そのお店は場外市場にある。一般客向けの卸売問屋の並ぶ通りを抜けて、晴海通りへ出ると、ね、通りに面してコーヒー屋さんが開いているでしょ。え? 市場なのにコーヒー店なの! だって。違うよ、"市場ならではのコーヒー店"。もっともコアな市場を味わえる場所なんだ。入ってみるまでは分からないけどね。だいいち入口に、ほら、タルなんか並べちゃって、まったく市場ばなれしてる、というよりも日本ばなれまでしてるから、一体どうしたのって感じだけどさ。

             

 僕がこの店を特別気に入っている理由がふたつある。そのひとつがこの店の看板娘。ここだけの話、すごいカワイイんだ。年の頃は17、8かな。今どきのギャルじゃ全然なくてね。"いらっしゃいませ"と言うときにできる小っちゃなエクボが実にいい・・・

 「いらっしゃい。何にする?」
 「あ、ブ、レンドを。」


 何でマスターが出てくるんだよ。びっくりするじゃないか。あ、マスターもエクボできるね。いや、見たくないけどさ。あれ? いないなあ。あの娘どこへ行ったんだろう。まさかお店やめちゃったりして。市場の女の子にしちゃ可憐すぎるもんな。ううーん。ま、いいか。ええと、この店はね、テーブル席とカウンターとあるんだけど、まずはテーブルに陣取るんだ。カウンターでは店の常連が腰かけて気楽におしゃべりしてる。それとなく耳をかたむけてみよう。

 「ところでカズちゃんはどうしたの?」
 「ああ、しばらく手伝ってもらってたけど、春休み終わったから学校だよ。やっぱり娘なんて使いにくいな。こちらの方が緊張しちゃうよ。」


 あ、そうなんだ。マスターの娘さんだったんだ。へえ。カズちゃんっていうのか。へえ。へえ。夏休みにはまた会えるのかなあ・・・。

           

                
 「こないだタッちゃんに会ったらさ、まいったよって苦笑いしてたけど、あれ、何かあったの?」
 「ああ、それはね・・・ほら、あの人ってバイクで買出しに来るじゃない。寒い朝にはズボンを二枚はいてるんだよ。いつも入ってくるなり上のズボンをおろして二枚目のズボンから財布を出して払うんだ。で、こないだもズボンを下げて財布を出そうとすると急に"そうだオレ、今そこで事故を見たんだ"って、熱をおびて実況中継を始めたんだよ。事故の様子をこと細かにね。それで、ひとしきり話したあとでハッと我にかえって、"そうだオレまだ払ってなかった"そういうとバッとズボンをずり下げたんだ。さっき一枚目のズボンをおろしたの忘れてさ。こっちが"あっ"というのも間に合わなくて、タッちゃん、そこであられもない姿になっちゃった。すぐ後ろのテーブルに座ってる女性の前で朝からシマのパンツ見せちゃったんで、ムスコともども小さくなっちゃったってわけ。」
 「ははは。とんだセクハラオヤジじゃん。」

 僕がこの店を気に入っている理由のふたつめがこれ。ここでコーヒーを飲んでいるだけで市場のレアな話がそれとなく耳に飛び込んでくるんだ。実はこの店は市場の人たちのちょっとした情報交換の場になっている。まるで江戸時代の"浮世床"みたいだよ。市場ならではといったのはこういうことなのさ。

 「おー、今日は暑いな! マスター、どお、景気は?」

 突然背後の扉が開いてお客のひとりが入ってきた。この店は奥に小さな引き戸があるんだ。扉には"ヨネモト小路"と札がかかっていて、そこを開くと裏の路地から場外市場の通りに抜けられるよ。いつも猫が昼寝をしているような可愛い小路だ。店の常連さんはコーヒーとおしゃべりが済むと、この扉を開けて出て行くんだ。でもいきなり裏手から入ってくる客ははじめて見たよ。その人はカウンターにパシッとお金を置くと、そこへスーッとアイスコーヒーが出てきた。"今日は暑いな"だけで注文が通っちゃうんだ。それをクっと引っかけておいて、となりの客と売上げ悪いな、なんて話をはじめる。何かカッコイイ。本人は別に格好つけてるわけじゃなく、いつもの行動をくりかえしてるだけなんだろうけど、それがやけに粋に見えてしまう。僕もいつかあの扉からひょっこり入ってきて常連客に混じって市場の話をしてみたいなあ、ふとそんなことを考えてみる。ま、ちょっとした思いつきだけどね。土台無理な話でさ、僕はここでもやっぱり異邦人だよ。誰にも知られずコーヒー飲みながら、おもしろ話に耳をかたむける。それで十分満足しちゃってるんだ。

                
               

 それでもって今週もまた市場の旅人になってしまう。
 最近ちょっと気がひけることもあるんだけどね。というのも、ほら、市場のなかを歩くって、言ってみりゃ他人の職場に足を踏み入れるようなものじゃない。もちろんなるべく邪魔にならないよう、なんて心がけるけれども、何となれば部外者でしかないからね。
 それでもまあ、今日はとある仲卸店でイサキをわけてもらったからさ。場内での買物ははじめてだから、ちょっとウキウキした気分さ。この勢いを保ちつつ、いつものコーヒー屋さんへ。まあ、お定まりのコースなんだけどね。

 「・・・それがさ、はじめは気づかなかったんだよ。だって、築地のこんな小っちゃなコーヒー屋にそんな有名人がやって来るなんて考えもつかないことじゃない。」
 「有名人も有名人だよ! 何で入ってきたときに分からなかったのさ?」
 「うーん、ちょっとどこかで見たなって感じはしたよ。ほら、そこのテーブルに座って、しばらくふたりでおしゃべりしてた。ものの15分くらいかな。それで出て行っちゃった。あとでテーブルを片づけると、百円玉が二枚置いてある。チップなんだろうね。いや、さすが外人は違うな、なんて感心してたら、そこへ隣の海苔屋の奥さんが飛び込んできて、"ジョ、ジョン・レノンが今、店の前を通りすぎたわよー!"って。あ、じゃあ今のふたりがそうだったんだ、ジョンとヨーコだったんだ、って分かったのね。」

 え、何? 何だって? ジョン・レノン!! 本当かよ?
 
 「しょうがねえなあ。せっかくだから何か記念になるものでも貰っときゃいいのに。コーヒー代サービスしますから、かなんか言ってさ。ねえ、マスター、知ってるの? 今、ジョン・レノンのちょっとしたサインだって何百万もするんだぜ!」
 「いや、それがさ・・・それからしばらくたって、あれは1月の寒い朝だったな。店を開けようとすると、薄明かりの中に背の高い外人さんと品の良さそうな御婦人が立ってるんだ。"早く着きすぎちゃって、待ってたのよ" その声に眼をこらして見ると、何とレノン夫妻なんだよ。"あ、すみません、今開けますから"とにかく入ってもらって、急いで店の中を暖めたよ。
 ヨーコさんはメニューを見ながら"ツナを食べたいって言ってるから、ツナサンドを作って下さらない?"っていうんだ。そういえば知り合いに熱狂的なビートルズファンがいたなって思い出したんで、サンドイッチを持っていきながら、"すみません、サインをいただけませんか?"ってお願いしたんだ。そしたらね、"ごめんなさいね、プライベートのときはしないことにしてるの"だって。でも、"そのかわり握手しましょうネ"そういって握手してくれたの。それからジョンとも握手するように勧めてくれたんだ。ジョン・レノンってすごい背が高いんだけど、その手はとても華奢で繊細だったよ。それからふたりはひと息ついたのか"また来るわね"、そういって出て行った。たぶん市場見物に行ったんだろうね。
 こんな店のどこが気に入ったのか分からないけどさ、それから何度か訪ねてくれたよ。たいてい決まって朝早かったな。成田からまっすぐ来るなんて言ってた。あ、そうそう、ショーン君っていう息子さんもいっしょに来たこともある。あの当時7歳か8歳くらいじゃなかったかな。とても可愛い坊やだったよ・・・」
 「・・・へえ、そんなことあったんだ。知らなかったなあ。すごいじゃんマスター。世界的なスーパースターが常連だったなんて!」
 「いや、まあ・・・そんなものじゃないよ。でもさ、あの後、あんなことになっちゃってね。だから時々思うんだよ。あの時ここにいたふたりは実はニセモノのジョンとヨーコでさ、それで、いつかまた寒い朝に店の前に立っているんじゃないか。そしたら、どんなに良いだろうってね。」
 「ああ、本当、そうだよね・・・でもさ、よりによって、何でこんな店がそんなに気に入ったんだろうね?」
 「さあ・・・」

 なぜジョンとヨーコが何度もこの小っちゃなコーヒー店を訪れたのか、僕にはちょっぴり分かる気がする。あの人たちはどこへ行っても大騒ぎで特別扱いされて、好奇の目で見られるのはうんざりだったんだろう。でも、この店はごく普通の接し方をしたんだよ。それがうれしかったんじゃないかな。他の誰とも同じような扱いを受けるこの店が、とても気の休まる場所だったんだろう。それから市場もね。ただの"よそ者"としてしか見やしない、ガンコでまっとうな市場の空気の中を、きっと清々とした気持ちで歩いたんだろうな。その気持ちがよく分かるよ・・・。

               
               

 おっと、天下のジョン・レノンをつい自分に引きつけて考えちゃった。もちろんジョンと自分じゃ比べるべくもないよ。でもさ、あの人がどこかで感じたのと同じ興味をきっと自分も感じているんだ、そんなふうに思うと、何かむしょうにうれしいな。
 ああ、今日は良い話をきいた。今日も来て良かった。というところで異邦人はそろそろ自分の国へ戻るとしよう・・・。

 「ごちそうさま・・・」
 「はい、どうも・・・あ、いつもありがとうね!」
 「(え?)」
 「いつも土曜日に来てくれる人でしょ。毎週熱心だね!」

 あ、気づいてくれてたんだ・・・

 土曜日の別世界探訪はなかなか終わりそうもない。僕はまだほんの入口くらいしか見ていないんじゃないかって気がするんだ。それでも、こうして何度も訪ねていると、いつのまにか風景も少しだけやわらかな表情を見せてくれるのが分かる。そして人知れぬ"異邦人"も挨拶の数が増えてきて、近頃じゃ、ちょっとだけ"滞在者"に変りつつあるみたい。それは僕が最初意図したものとはちがうんだけど、でもそれはそれで、とっても幸せなことじゃないかなと思ってるんだ。

  

 ヤロウズ通信第2号 2004年5月11日発行
   発行所:ヤロウズ通信社 住所 中央区築地魚河岸のどこか
 責任編集:マグロ太夫
    協力:給ちゃん、ブン太さん
 取材協力:ヨネモトコーヒー


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